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中間テストを振り返る
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    地元中学の定期テスト(前期中間試験)の結果がほぼ揃った。学年ごとの平均点と400点以上の割合をあげて試験と各学年の現状を振り返ってみたい。点数的に全然大したことはないのでこうして上げるのは恥ずかしいのだが、私自身の反省と向上への決意を込めてあえて晒す次第。


    5教科平均点

    中1:396点   中2:426点   中3:406点

    5教科400点以上の割合

    中1:43%    中2:75%    中3:75%


    中1が平均400点に届かず、400点以上の割合も半分を切っている。3年間で最も点数が取りやすいはずの中1最初の中間テストでこの結果は、普通に考えれば非常にまずい。ただ、試験前からこの結果は予想していた。「中間はこっぴどくやられる」、そう思っていたが果たしてそういう結果となった。


    そう考えた理由は2つあって、1つは「中1ショック」、もう1つは「部活の消耗」だ。前者の「中1ショック」は小学校の勉強と中学校の勉強のギャップの大きさとそれによる勉強のつまずきをいう言葉だが、私立中学受験組もおらずいたって普通の小学校生活を送ってきた我が中1生は、確実にこれにやられることを予想していた。英数は塾でやっているからそれなりに取れるであろう(でもこちらもそれぞれ塾平均が89点、88点と全く満足いくものではない)が、とりわけ内容が濃くなった理社に関しては地元中の問題量の多さ(これはどの学年も共通で、ウチの一番作業が早い中3生でも苦労する分量)にやられることは十分予想できた。だからこそきっちりとした勉強レクチャーに時間を割き、正統の勉強を促したが、定着するにはまだまだ時間が足りなかった。生徒達の反省文を見ても「ちょっと甘く見ていた」感が強い。ここまで小学校の勉強とレベルが違うとは思っていなかったのだろう。


    もう1つの部活の消耗はすべての生徒についてではないが、一部の非常にきつい部活に入った生徒は体力的な消耗が激しく、普段から勉強が停滞気味になっている。当然試験勉強でもそれを引きずり、勉強時間が確保できなかった(1週間前でも朝練はあったりする)。これは体力の向上や慣れによって改善するのか、それともこのまま学年を重ねてしまうのか、非常に難しい問題でもある。


    部活の問題はさておき、中学の勉強の壁に跳ね返されてしまった生徒の挽回は私の導き方にかかっている。まあ中1最初のテストは毎年様子見という位置づけであんまりギャーギャー言わないようにしているので、次回の期末は大きく動かしていく。平均400点は軽く超える予定だ(←大胆宣言)。そのための仕掛けも着々と準備が進んでいる(そんな大したものではありません)。


    中2はまずまず。平均点そのものよりもほとんどの生徒が成績を向上(もしくは挽回)させたことを嬉しく思っている。中2の特徴は作業が速いこと。これは勉強における非常に大きなアドバンテージだ。これが定期テストの結果にもつながっている。スピードの向上はどの学年でも強く意識していることだが、中2の速さは彼らの大きな武器となっている。この学年も1年前は今年と同じような成績だった。中受組はやはりおらず普通の子達だが、しっかりと成績を伸ばしてきた。学年1位をキープしている生徒もいる。これからもっと伸ばせるかどうかはやはり私の導き方に拠るところが大きい。


    中3はかろうじて平均400点を超えたが、割合を見ると分かるように点数の差も大きい。中3までくるとそれぞれの課題をいかにクリアするかが優先になるので、それぞれに有効な働きかけを意識していかなければならないと思う。


    中3で一番問題なのが、クラスの一体感があることだ。一体感いいじゃないか、と言う人もいるが、こと成績向上に関しては阻害要因になることが多い。生徒間の仲のよさは「隣を見て安心する」「怒られるのは一緒」「きつい宿題を愚痴り合う」など勉強に対する意識を拡散させる。勉強は本来自身と向き合う集中した意識とストイックさが求められるが、それが仲間意識によって拡散希釈されてしまう。1人のちょっとのだらしなさや自己都合解釈は、すぐに周りに波及する。


    今回のテストの反省文を見ても、ことごとく「あれをやれていなかった」「これが不十分だった」などと書いてある(ふざけんな!)。どこからか「このくらいの勉強でいい」という雰囲気が発せられているのだ。ウチは休み時間は取らないので教室でそういう雰囲気が共有されることはないが、皆で帰る帰り道や学校で、甘さは確実に伝播し、それぞれの勉強に対する意識が鈍麻している。それがギリギリ平均400点という結果だ。


    もう毎回のように説教から授業に入っている。宿題の取り組みも提出物の期限に関しても、全部甘い。それで厳しい入試を乗り切ろうなんてちゃんちゃらおかしい。もっと内向内閉的に勉強に向かうことを求めねばならない。こちらも仕掛けの準備は進んでいるので、夏期講習に向けて体制を整えていこうと思っている。





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    効率と時間の狭間
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      現在進学塾Uineでは定期テスト対策のため通常授業はストップして各自演習作業を進めている。私がするのは試験勉強の予定を立てさせる(学校でやらされるのとは別のもの)こと、勉強の進め方や暗記方法をレクチャーする(相当しつこくやる)こと、そして質問対応。週末は勉強会という名目で長時間学習もさせる。試験勉強は各自家でしっかり進められるのが理想だが、ウチの生徒はまだその点未熟なので私がお膳立てする部分が多くある。


      試験勉強の質問対応をしていると普段気づいていなかったことにハッとさせられることがある。先日もそんな1コマがあった。


      中2の化学反応式。ここはいわゆる「原子の数合わせ」をしなければならないところで、結構な生徒が理解に時間がかかる。


      生徒がもってきたのは水の分解の化学反応式。「水→水素+酸素」と言葉で表現したものを化学式をつかってH2O→H2+O2と表し、ここから原子の数合わせをしていくというものだ。見てみると学校の授業ノートは教科書(ウチの区は学校図書。言うまでもなく教科書はとてもよくまとまっている)に準じる形できっちり書かれており不足はない。まあよく来る質問なので、ノートをもう一度なぞる形で説明した。


      当該生徒はなかなか納得できず、1時間以上繰り返し解説してやっと腑に落ちた。ちなみにこの生徒、学年1位である。徹底した努力の子なので瞬間的なひらめきはそうないタイプだが、疑問は絶対に残さず納得できるまで何度でも質問してくる。こういう生徒の抱く疑問点は指導の本質に関わるヒントが隠れていることが多いものだ。


      この生徒がなかなか納得に至らなかった原因は「情報量と時間」に関わる問題だと思う。


      この化学変化の単元は抽象度が高い。しかしそれはちょっと中途半端な抽象性だ。数学のような完全なる抽象なら数字の操作だけをとりだして理解し作業を進めることができるが、化学変化のようないわば「現実の残像」を色濃く残した抽象性は、その残像が抽象理解の妨げとなる。だから「え?水が酸素と水素でできてる?水を分解って?分解すると空気出てくるの?(これは当該生徒の言葉ではありません。念のため・笑)」みたいに混乱する生徒が出てくる。


      そういう抽象性をもっている上に、ここは非常に新出(新出じゃなければまた事情は異なる)の情報量が多い。「原子」「分子」「化学式」「化学反応式」「単体」「化合物」「モデル図(学図だと『原子カードが巻末についている』)「原子の数合わせ」…混乱しない方がおかしい。


      確かに現行の教科書はとてもよくまとまっている。これを使って解説すればまず理解させられるだろうとは思う。ただ、これだけの情報量を理解・定着させるには、やはり時間の助けが必要だろう。教える側は情報量の多さからくる理解の難しさを十分考慮し、1つひとつのことがらをじっくり教え、間を取る(授業の間を開ける)ことも必要になる(ただこの時期の学校は新年度間もないことに加えて運動会等の行事も立て込んでおり、それほどじっくり時間をかけてはいないようだ)。


      このことは塾での指導に対する警鐘、とまではいかないまでも我と我が身を振り返るべき重大な示唆を含んでいると思う。


      我々塾は学校より短い時間しか持ち得ていないので、「効率よく」教えることがいわば宿命づけられている。学校で行うような実験や調べ学習は省き拡散しがちな内容を集約してルール化して、短時間での理解と定着を目指すのが塾での指導のありようだ(学校より時間が無いのに先取り学習までする!)。


      確かに、板書やプリントに工夫を凝らしながら短時間での効率学習を可能にするのが我々の腕の見せ所でもあるのだが、「短時間」「効率」「先取り」からは時間のもつ理解醸成の効果は捨象される。これが指導の陥穽でもあろう。生徒の理解に必要な時間を削ぎ落とすことに対する自覚と、それを補うための方法をもっていなければならない。


      とりわけ「間を取ること」の重要性を再認識したい。当該生徒は1時間以上の解説でやっと理解に至ったが、完全ではない様子だった。それが次に来塾したときに確認したところアッサリ「もう大丈夫です」。時間が情報量を落とすべきところに落とし込んだということだろう。こういう時間のとり方は塾では中々厳しいのだが、そういう効用に対する認識をしっかり持っておかなければならないと思った。





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      修学旅行のおみやげ
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        5月から6月にかけては地元中学の修学旅行シーズン。進学塾Uineの中3は全員奈良〜京都という定番コースを回ってきた。


        旅行に付きものなのがおみやげだ。修学旅行に行った生徒達が塾におみやげを買ってくるか否か。これは多くの先生方がおっしゃっているように、教師と生徒の距離感によるのだと思う。生徒と教師が接近・密着していれば買ってくる生徒が多いだろうし、距離感があるならば買ってこない。このことは修学旅行に限らずその他の旅行でも、またバレンタインなどのイベントでも当てはまるだろう。


        ウチの中3生。今年は14名だが、ほぼ全員がおみやげを買ってきてくれた(連名での購入もあり)。全部生八ッ橋(苦笑)。授業終了後、何日かに分けて中学部の生徒達全員で食べた。毎年そうしている。


        生徒との距離感が近ければナアナアの雰囲気や成績向上を阻害する情が頭をもたげやすい。それを避けるために生徒達との距離感を意図的に「演出」される先生もいる。生徒の呼び方も呼び捨てではなく「君」「さん」をつけるなどもそうした工夫の表れだ。


        私は生徒を下の名前で呼び捨てで呼んでいる。授業外で雑談も結構するし学校のイベントにも足を運ぶ。


        私と生徒達の距離感は確かに近い。私がまとう役割はあたかもうるさ型の父親のそれだ。


        独立当初は勤務時代の「甘さ」を払拭すべく、肩肘張りすぎていたところがあった。呼び捨てによってできる距離感の近さに自分の甘さを見るような気もして、君、さんづけに変えようかと思ったこともある。


        昨年あたりから私の行き方には「距離感の近さ」が必要だと思うようになった。要するに、距離感を取るような関わり方はキャラじゃない。生徒との距離を取り、学力向上だけに邁進するという講師像には憧れがある。だが、私にらしさというのがあるとすればその1つが生徒との距離感の近さではないか。


        しばらく前に見学に来た予備校時代の教え子がこう言ってくれた。「先生の塾の生徒達、みんな先生のことをすごい信頼してますよね」。初めて塾を見た見学者がそこに「信頼」をみる。塾講師に与えられる最大級の賛辞だろう。この時、引きずっていた「距離感を取ること」への思いが消えたかもしれない。


        ギャーギャーガミガミうるさい塾長だが生徒達は信頼してくれている。それでいいじゃないか。その信頼の上に成績向上を実現するのが行くべき道じゃないか。今はそんなふうに思っている。




         
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        「授業の受け方格差」
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          予備校で授業をしていてよく感じるのだが、「授業の受け方」には相当の「格差」がある。当然のことながら学力上位層の授業の受け方はこちらの要求するものにほぼ沿っているのに対し、「普通の生徒(高校入試偏差値で50未満〜60未満くらいの高校に通う生徒)」のそれは甚だ不十分で心許ないものだ。こうした授業に対する姿勢はやる気の有無で片付けられがちだが、これもまたインセンティブディバイド(意欲格差・刈谷剛彦)の1つであり、学力と家庭の文化資本の相関と同じく生徒たちのあずかり知らぬところで生まれた格差の発現であるという視点をもっておきたい。


          こちらの要求する授業の受け方というのは、「指示した準備(予習)がしっかりできている」「視線が上がって講師と黒板を凝視」「手がしっかり動きとりわけ口述をしっかりノートにとっている」「授業時間内で覚えるべきは覚え、腑に落とすべきは落としている(納得できないものはすぐ質問に来る」などと言って差し支えないだろう。積極的でやる気のある取り組みというのはこうした能動性をもっている。


          一方で不十分な取り組みとはその反対だ。「指示した予習ができていない」「指示しないと手が動かない・指示しても動かない」「顔が上がらない・上がっても視線が定まらない」「髪の毛をいじくる(爆」などだろうか。授業への向き合い方が惰性でしかも受動的だと言える。


          先に述べたように、こうした授業の受け方の違いは「やる気の有無」で説明されやすい。彼らは大学受験生だ。社会に出るのではなくあえて高等教育を受けることを選択した者なのだがら、授業には相応の態度で臨んで然るべき。そうとらえられるのが通常だと思う。私もそう思わないではないが、小中学生から継続して指導をしている者としてはそう単純にやる気無しのレッテルを貼ることもできない。大学受験生がヘッポコな授業態度なのは、おそらく小中学時代のどこかにそうなるべき要因があると思うのだ。


          当然要因は複合的だが、私は「授業の受け方移行」に注目している。小〜中〜高の授業というのは学習内容そのものは連続性を持ちながら(急激なレベルアップもあるにはある)、そこで求められる「生徒像」がそれと分からないままに大きく変化していると思う。その変化、転換に上手く適応できなかった生徒が、「ダメな授業の受け方」に陥るのではないか。


          小学校の学校公開(授業参観)に足を運んでみると、活発な授業が多いことに気づく。挙手、発言、討論、発表(プレゼンテーション)などなど、生徒たちは静よりも動の姿勢で授業に臨んでいる。「意欲」が評価される指導要領のもと、子供たちはより活発に、「能動的」に、授業に参画することが求められている。


          中学になると学習内容は格段にレベルアップする。そこでは「中1ショック」と言われるギャップが生じ、小学校の時は特に家庭学習をしなくとも良好な成績を取っていた生徒達が、同じノリを引きずってあっという間に「普通の成績」に下降していく。


          難しくなった学習内容は生徒たちに内的な自己対話と内省的な取り組みを求める。小学校でのような(もちろん小学校でも内的な取り組みが要求されることもあるが)活動的な授業モードからの転換が必要だ。これは受動的なもの編転換ではなく、あくまで能動のあり方が内的なものになると言ってもいいだろう。発言や挙手よりも自己対話が、発表よりも思考と反復が求められる。しかし、こうしたことは直接それとは教えてもらうことがない。その変化に気づき、自身で取り組みを変化させていかなければならない(この変化も多くは無意識的だ)。


          中学の授業。一部の生徒はいまだ小学校モードを引きずり、ひっきりなしに発言し授業をかき回す。当然成績は芳しくない(塾でやっているからといって授業を乱す不届き者も時にいる)。また一部の生徒は必要な授業モードの移行をやりとげ(小学校時代から身に付けている者もいる)、求められる学習を必要十分にこなしている。しかし多くの「普通」の生徒はその移行が不完全で、内的な能動性を手に入れることがないまま小学校での活発な授業参加だけを脱ぎ捨てる。そこに残るのはどこかしらけた授業に対する向き方だったり、何となく授業に臨む惰性だったりする。「口述を筆記する」とか「授業内で覚える」などの「作法」を教えられないまま学年を重ねていくことになる。


          授業の受け方に変化をもたせなければならないことは、誰も教えてくれない。あっても「中学生としての自覚」のような抽象的根性論をぶつけられるのが精一杯だ。これはもちろん塾でも同じ。具体的な作法として授業の受け方をレクチャーする塾は恐らく少ない。


          やはり私の問題意識は小中学生に授業作法を教え、身体化することにある。直近の目標である高校受験はもちろん、その先も見据えなければならない。数年後私の生徒達が大学受験に臨むとき、予備校に行くこともあろう。そこで「正しい」授業の受け方ができるようにしつけておかなければならないとも思う。



           
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