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欲しいもの
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    小6になる息子が欲しいものがあると言う。なんだそれと聞いてみると1つではなく3つもある(ありやがるw)。それらはというと、



    ○ 携帯音楽プレイヤー(ipodみたいなヤツ)
    ○ 野球のグローブ
    ○ オーナーズリーグ(オンラインカードゲーム)のカード箱買い



    ちなみに息子は野球はやっていない。自分はやっていないが仲の良い友達がやっていることもあってお遊びでやったり野球のカードゲームをやったりしている。テレビで見たりもするらしくなにげに野球には詳しい。



    ウチはゲーム機の類は一切与えていないので、子どもが親に何かをねだるということはあまりなく、あったとしても値段的にそう高くない。



    ただ、お金のからむことには慎重になりたい。お金やものの与え方は子どもの金銭感覚、物品やそれを与えてくれた人への感謝の気持ちなどなど、さまざまな姿勢態度を涵養していく。与える側が下手を打てばとんでもないバカモノになる可能性だってある。



    上記3点を買ってやるのはもちろん何かのイベント時(誕生日が有力)だが、さて、どれを買うか。ここには子ども自身の希望と親の思惑とが交錯する。



    金額的に一番安いのはカードの箱買いだ。息子もこれならイベントでなくともイケると思っているフシがある。でもこれは論外。欲しいカードを確実に手に入れるために箱ごとカードを買う。こういう「大人買い」という名の「欲望の開放」を、私は子どもに味あわせたくない。子どもの頃は色々な心情を経験させたい。欲望を開放するのではなく「我慢」とか「羨望」とかの気持ちを内側に溜めていくことは、他者の心情を慮れる人間になるための大切な経験だと思う。また、箱買いしたらそれだけ「不要な」カードがたくさん生まれるのだから、お金の使い方としてもどこか淀んでいる気がする。



    グローブというのは体を動かすことでもあるし友達とのコミュニケーションにもなるのでいいとは思う。何より、これを機に親の(私の)グローブも買って普段足りない親子の触れ合いのチャンスだと思ったりもする。問題は「いつやるのか」ということ。まあこれは私の気持ちとやる気次第か。子どもとのキャッチボール。絵に描いたような「いい親子関係」で私には似合わない気もするが、でもちょっと憧れる。



    携帯音楽プレイヤーもいい。人生を豊かにする音楽に親しむとともに、一人の時間を演出してくれる。思春期に向かうこれから、自分一人の時間をもち内省的に自分と関わることはとても大切だ。音楽を聴きながら厨二っぽいロマンティシズムに酔ってもいいし、誰にも言えない内面と向き合って発散したり慰められたりしてもいい。携帯音楽プレイヤーが大人への階段を上るための杖の1つになってくれたりするだろう。



    さてさて、親があれこれ思い悩んでも子どもはアッサリ違うものを希望したりするのもよくあることだ。下手の考え休むに似たりにならぬよう気をつけよう。 





    | gen | ゆるネタ | - | - | - |
    理念先行
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      しばらく前にツイッターで予備校の先生たちによる「マナビーdis」ツイートがあった。



      マナビー(manavee)というのは大学受験向けの「無料映像授業サービス」だ(ご存じない方はググってみて下さい)。立派なサイトもあってそれなりに世間の耳目を集めてはいるようだが、いかんせんコンテンツ(映像授業)がお話にならない。訓練されていない大学生講師による焦点のぼけた授業で、学習効果ははなはだ疑問だ。



      ここで改めてマナビーの授業を批判しても繰り返しになるので触れない。私が気になるのは、マナビーに対する評価として「授業はダメだが理念はよい」とか「教育で金儲けをしない、純粋なボランティア活動」などの肯定的な見方があることだ。



      マナビーの理念は、煎じ詰めれば「大学受験における地域格差、経済格差の是正を目指した、誰でも無料で利用できる映像授業サービスの提供、そしてそのシステムの循環(マナビーを利用した受験生が大学入学後教える側に回る)」といったことらしい(詳しくはマナビーのサイトにて)。



      私はマナビーの授業だけでなく理念にも全く魅力を感じない。いや正確に言えば、こうした理念先行型の教育に対しては強い違和感を感じる。正直、マナビーは早く潰れないとダメだと思う。運営者や関わっている大学生のためにも、こういう「お遊び」は通用しないということを感じさせた方がいい。



      ネット環境の隆盛によって、「ビジネス」のあり方はあらゆる分野においてドラスティックに変化をもたらした。その1つに若者による起業隆盛があるだろう。様々な起業の形態があるが、私が耳にする範囲ではそうした若者、学生起業というのは多くネット転売、アフィリエイトビジネスなどの「虚業」が多い。こういう「ビジネス」は少なくとも生業と呼ぶことのできない、まさにうたかたのカネ稼ぎと言って差し支えないと思う。



      そうした虚業に限らずとも、若者・学生起業の多くは「理念先行」が多くないだろうか。どこかで仕入れたビジネス用語を駆使しながら「社会貢献」「循環型ビジネス」「WIN-WINのパートナーシップ」などの理念を熱く語る「意識高い系」の若者は、ネット上にはたくさん存在している。



      私は若者のもつ斬新なアイデアや底知れないパワーは十二分に認めるものだが、「実(身につけた実力をもって誠実に事に当たる)・身(中身・身の丈の意識)」が必要な仕事において「理念」を先行させても、それは単なる絵に描いた餅である。厳しいがマナビーはこれにあたると思う。



      教育とは実践の積み重ねだ。理念を欠いたがむしゃらな実践は時に思わぬ落とし穴にはまったり無駄を生んだりすることもあるが、教育における理念は実践の集積からしか生まれてこない。実践なくしてあれこれ理念を弄くってもダメなのだ。



      こうした思考がマナビーの運営者と授業担当の大学生には欠落している。「格差の是正」という理念を先行させ、受験期に受けてきた授業を、自身がそれを経験したというそれだけを根拠に再現できると勘違いしている。



      初めに書いたが、ネット上にはマナビーを「ボランティア的」であるという理由で評価する意見もある。しかし、ボランティアというのは「労働力として人手が必要なところ(被災地など)」に赴いて自らの労働をもって貢献したり、「専門技術を持った人々(医師や教師!)」がその技能を無償で提供する行為だ。専門技術が未熟なものによる「教育ボランティア」は成立しない。



      厳しく断じれば、これは自己実現や自分探しを「崇高な」教育理念でコーティングし、安価な労働力(大学生)を頼りに成立させようとしたものだ。なまじ「格差の是正」とか言うからタチが悪い。おそらく運営者は教育における格差や近代的労働について学んだり考えをめぐらせたりしたこともないのだろう。教育格差について本を読み、ちょっとでも考えてみればこの程度のコンテンツで「是正」なんてことは恥ずかしくて言えない。近代的労働について思考をめぐらせれば、「無料」の無意味さにも気がつくはずだ。




      私は塾や予備校という「既得権」の側にいるからといってマナビーを批判するのではない。「人のため」を謳いながら、それが自己実現の手段であるということの(おそらくは)無自覚と、安易にネットコンテンツを利用するという安っぽさが、末席ながら教育に携わる者として見過ごせない。



      確かに自己実現ではない仕事などないとも言え、その点においては自己実現そのものをそう批判するものでは無い。しかし、自己実現であることを自覚し再帰的に自己に関わるありようと、自己実現に無自覚で理念に陶酔している様とは全く別物だ。



      マナビーは先日朝日新聞でも大々的に取り上げられた。この期にマナビーを知り、利用しはじめる受験生も多いだろう。しかし、運営側が自己実現と理念陶酔に無自覚ならコンテンツの不備はこのままだろう。「アマチュアですから」「無料ですから」の言い訳がまかり通る無責任な「理念」の犠牲者は受験生だ。



      そもそも、人のためを目指すのにどうしてまずネットコンテンツなのか。人の手を借りるのか。「インターネットは全世界に繋がっている」なんて言辞は耳にタコができるほど聞いてきたが、そういうあなたは自分の力で目の前の生徒の成績を上げられるのですか?



      かつてならこういうことは思いつきレベルで終わっていたろう。しかしネット環境の整備によって、新たな「ビジネス」や「社会貢献」が可能になった。私はこうした流れについて、デジタル時代が若者から足元を見る冷静な目を失わせたと感じざるを得ない。



      授業を提供したいのなら、まず自らが教えることのスペシャリストになりなさい。授業をもってして人のためを目指すなら、まず授業で自分の汗を流しなさい。授業をもって稼げる人になりなさい。自身の磨いた技術を無償で提供するというのなら何の文句もありません。私の行く道とは違うけれど、立派な行為だとして尊敬します。そうでないならそれはお遊びだということ。






       

      | gen | 真面目 | - | - | - |
      現役生の覚醒
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         予備校で接する現役生というのは女子を中心として浪人を忌避する傾向が強い。かつて受験人口が多かった時代は否応なく浪人せざるを得なかったものが、大学全入時代を迎え「それなり」のところには入れるようになったこととも関係するのだろう。また「入れる状況」が浪人という言葉に「怠惰」の雰囲気を以前よりも分厚く纏わせているのかもしれない。



         現役生の受験勉強は「時間切れ」との戦いだ。もちろん高1高2の時点から受験を意識した勉強を重ねていくのが理想だが、彼らには部活もある。友人関係や異性関係にしても、高校時代は一生で最も充実している時だろう。「普通の高校3年生」たちにとってはそう先を見据えて勉強には取り組みづらい(私が教えているのは昔も今も「普通」の生徒達ばかりだ)。



         こういう現役生もどこかで「覚醒」する時がある。部活の引退がきっかけになったり、何かが引き金となって大学への思いが狂おしいまでに高まったりした時、一気に勉強モードに突入する。学校をさぼって塾や予備校の自習室にカンヅメになり、浪人生以上のパワーで勉強を重ねていく。



         しかし、高3途中からの覚醒は、「普通の高校生」にとっては大抵「遅かりし由良介」。1年以上のアドバンテージがある浪人生や上位一貫校生の後塵を拝する形で、多くは第1志望の夢破れる。そしてその挫折感をキャンパスライフに対する胸の高まりと「諸事情」という名の理由づけでコーティングしながら、第2、第3志望の大学に進学していく。



         でも、覚醒した生徒が時間切れで第1志望を断念するのはもったいないと思う。浪人しても何の保証もないとはいえ、かつてのような受験人口ではないのだから不確定要素はかなり少なくなっている。自身を取り巻く諸事情には抗えない部分があるとしても、せっかく覚醒した勉強モードを中途半端な継続で終わらせてしまうのは惜しい。



         覚醒は浪人での成功を半ば約束していると言ってもいいのではないか。私の教えてきた生徒で浪人してから花開いた生徒は、必ず現役時代どこかで覚醒していた。それが8月であっても12月であっても、覚醒モードに入ってから死ぬ気で勉強した者は浪人して第1志望に合格していった。これはもちろん、覚醒せずに浪人した場合の成功可能性は測りづらいということも意味するわけで、だから誰に対しても浪人を薦めるものではないのだが。



         かつての教え子S。高校時代の学年順位はケツから5番以内が定位置。しかしどうしても明治に行きたいと現役の11月から「覚醒」。1日14時間以上というものすごい勢いで勉強をやったが、現役でのチャレンジは当然のように全滅。しかし浪人でもその覚醒を維持し、第1志望の明治をはじめ受験した大学のほぼすべてに合格した。



         教え子K。高校時代は部活オンリーの生活。引退した8月から覚醒するも、第1志望の慶應には届かず。実はこいつGMARCHの某大学には合格したものの、親に内緒で合格通知を破棄し慶應に再挑戦したのだった。GMARCHをぶった切るその覚醒っぷりは浪人での成功を約束していたと言ってもいいのかもしれない。翌年、見事合格した。



         私は現役生に対してはどこかでこの「覚醒」を待っている。享楽的な高校生活から禁欲的な受験生活にスイッチが切り替わる局面。表情や顔つきが変わるその瞬間というのが現役生にはある。その日を信じて粘り強く働きかけていきたい。




         

        | gen | 大学受験 | - | - | - |
        断念
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           週1で出講している予備校では色々なことに気付かされる。「断念」しなければならない局面にたびたび出くわすと言ってもいい。週に1回の関わりの少なさと、18〜20歳というなかば「完成した」自我に働きかけることの限界。よい講義をもってして生徒達の向上を図るのが予備校での私の使命だが、どんなに掌を大きく広げてもその両手からこぼれ落ちてしまう生徒がいる。



           私の担当の現代文に引き当てて考えた時、そうした生徒の特徴は大きく2点。まず「授業の受け方」を身につけていない。授業の受け方なんてただそこに座って講義を聴くだけだと思われるかもしれないが、授業内容を十二分に吸収して自身の学習にフィードバックさせていくという、こちらが企図している授業の受け方をするには訓練がいる。顔を上げて解説を聴き、指示がなくとも必要な事柄はきちんと書き、講師の解説に自身の思考を同調させていくこと。こうした「正しい」授業の受け方が内面化されていなければならない。「ここ重要!」と言っても顔が上がらない者、指示がなければ手が動かない者、解説に対する同調性が弱い(指名すればすぐ分かる。基本的なこと、既習内容でも答えられないタイプがそれ)者は、厳しいようだが成績向上の芽はまずない。居眠りなど論外である。



           こうした生徒に対しては逐一注意を与えてその受け方を矯正していくしか道はないが、予備校でそんなことをしていたら講義時間がなくなってしまう。居眠りはつまみ出すが、細かい授業作法の不備を一々注意している余裕はない。私は年度初めに授業の受け方についてもきっちりガイダンスをしているので、それでもダメな生徒は放っておくしかない(もちろんことあるごとに全体向けの説教は入れたりするが、個別対応はできないということ)。



           もう1つの特徴は「文章経験や言語体験が決定的に足りない」というもの。私の現代文はテクニックで正解を取るというものではなく、ど真ん中直球の「要旨作成による文章理解」。一文一文を丁寧に精読しながら、大意、筆者に主張に迫っていく。こういうやり方は文章のタイプや設問に左右されない実力を養成することが可能だが、一方でこれまでの文章経験が足りない者にとっては極めてハードルが高い。ハードルを落とせば伸びていくべき生徒の伸びを阻害するのでそれはできないから、なんとか文章体験を増やさせてついてこさせるくらいしか道はない。しかし、十代後半で貧弱な言語文章体験をたった10ヶ月で豊かにするのは、細い針穴に糸をを通すような難しさがある。



           文章経験というのは現代文学習の土台としては決定的で、これが豊富な生徒というのは放っておいても現代文ができたり、授業受ければ受けただけ実力を伸ばしていくことが多い。しかし貧弱な生徒はどんな講義をやっても中々「分かる」レベルにはならない。方法を駆使して「解ける」ようにはなるかもしれないが、現代文を自らの武器とすることは難しい。



           文章経験や言語体験は英文法のように体系化された学習項目になっているわけではないので、生徒自身は自分にそれが備わっているのかいないのかよく分からないというところに難しさがある。また教える側としてもこれを声高に言い募ることは、自身の指導力を棚に上げた責任転嫁的なふるまいにもなりうるから言いづらさもある。しかし、大学入試現代文の講義を聴いて実力を上げていくには一定レベルの素地がなければ難しい。私が念頭に置いているのは高いレベルではまったくないのだが、今はそれすら怪しい生徒達も上位大を目指す時代だ。だからこそ不足や欠落が目立つ。



           冒頭に書いたように週に1回の関わりで抜本的改善を目指す働きかけなど不可能の近いので断念の局面がありうるわけだが、そういう生徒に接していて考えるのは、「なぜこうなってしまったのか」ということだ。私が個人塾塾長だからだろう。その生徒が授業作法をまるで知らず守れず、また言葉や文章の素地がないまま大学受験まで来てしまったのはどうしてなのか。これまでの生活や学習経験の中で何とかならなかったのか。そういう思いにとらわれる。



           だから私の職業倫理の1つは、自塾でお預かりしている小中学生を「勉強のできる」生徒にすることである。授業において指示が聞ける生徒、自ら動ける生徒、頭の使い方を内面化した生徒。言葉をもって考えることができる生徒、基礎学力を徹底的に身につけた生徒。こういう生徒に育て上げていくことが小中学生の勉強を見ているものの使命だろう。目先の成績もまあ大事は大事だ。しかしそれだけでなく中長期的な視点で指導していくことはさらに重要である。



           もちろん塾の役割だけでなく家庭や学校の役割はさらに重要である。いや、そもそも塾というのは家庭や学校で身につけた基本姿勢や素地をもとに、さらに力をつけるために通う空間であったはずだ。それが今は塾に期待される役割が増しているように思う。これに関してはまた改めたいが、少なくとも生徒達の授業作法や学習素地に関しては塾だけでなく家庭や学校も大きな責任を負っていることは間違いない。





           

          | gen | 塾全般 | - | - | - |
          言語化と抽象化
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             先週のある日、このブログのアクセスが急増(毎日300〜500くらいしかないのがいきなり10,000アクセス以上)していて驚いた。ログを見てみると、
            このエントリーがはてなブックマークされたことが原因らしい。



             アクセスが伸びたことでいくつかコメントもついた。一切返信はしなかったが、色々思うところもあったのでここで触れてみたい。



             ご覧頂ければお分かりだと思うが、ついているコメントは私のエントリーに対する批判が主である。不勉強を露呈しているものもある中で、なるほどと思わせられるものもあるにはあった。



             私が感じたのは「抽象化」に対する認識の違いである。私は言語化=抽象化としたが、円という図形モデルで表すことも同様に「抽象化」なのだ。具体的な事物ではなく、定義にしたがって円というモデルを使って表すこと自体が抽象化に他ならない。だからそれにしたがって考えれば、私が言語化の一例として上げている「半径」については、半径という線分そのものが抽象化モデルの一部であるののだからそれに名称を与えること(言語化すること)を抽象化というのはおかしい、ということになる。円、半径といったモデルにした時点で抽象化は終わっているのであって、そのモデルに呼び名をつけたとしてもそれは構成要素に名前をつけただけだ、ということだ。



             数学は自然科学の言語、と言ったのはガリレオであったというが、数学という「言語」を用いて事象をモデル化することは間違いなく抽象化であるにちがいない。(もちろん数学だけがモデル化の手法ではないけれど)。



             ただ、抽象化とは概念化のことであり、我々は言語によって事象を概念化していることもまた事実だ。だから言語化を抽象化と結びつけて考えるのは間違いでもなんでもなく、一面の真理を表しているはずである。



             言語論(ひいては人文学的な世界認識において)は、「半径」をただの「構成要素の名称」とは捉えない。「名称」を「事物事象に付けられた名前である」と捉えるのは古い言語認識(「名称目録的言語観」、つまり言語をカタログ的なものであると考える認識法)であって、現在は「言語が世界を構成する」、ひいては「世界が言語である」というところにスタートラインがある。



             もちろん言語がアプリオリな存在であると無批判にとらえることは当然できず、言語以前の共通認識がなければ言語運用はできないという指摘もある。この点について深く考えるのはここでの論旨から外れるのでここまでに留めるが、少なくとも現代の人文学は「言葉にするから世界に(ひいては世界そのものが)立ち現れる」という言語論的転回以降の認識に立っている。




             これを説明する際によく用いられるのが「虹の色」の認識差異。文化が異なれば虹を構成する色数は異なるが、これは言語の違いに拠っていると考える。例えば多くの国や地域では虹は七色ととらえるが、五色や三色の地域もある。これは当然「自然現象としての違い」ではない。世界のどこで見ても、虹という自然現象に大きな違いはない。ではなぜ色数が異なるのか。それを言語における語彙の差によると考えるのがソシュール以降の認識方法だ。世界をどのように認識し、どう「切り取る」かは言語の差異に拠っている、というのがここでの問題意識である(そもそも色というのは明確な線引きがあるわけでなく、グラデーションで変化していくものなのだから、虹にとどまらず色彩語彙における差異性を作り出しているのは紛れもなく言語だ。そしてその区分は極めて恣意的であるというのがソシュールの指摘だった)。



             私が取り上げた「半径」という言葉で言えば、半径という名称を与えて始めて、その線分は「半径」としてその人の前に立ち現れるということになる。「半径」という呼び方を与えなければ、それはただの線だ。いや、「線」も言語である以上、呼称がなければそれは何物でもない。



             ただしかし、私があのエントリーで「思考の言語化」として想定したのは、「勉強が苦手(平均以下)の生徒」であった。ここまで理屈っぽい話ではない(苦笑)



             勉強が苦手な子はおしなべて言葉にするのが不得手である。前のエントリーにも書いたが、「今学校では○○(教科名)は何を勉強してる?」と尋ねても苦手な生徒はまとまった表現で返すことができない。言葉でまとめ上げることが苦手なのだ。勉強内容の1つひとつに関してもまったくそうで、「半径」とか「過去分詞」とか「室町時代」とかの「名称」を学習項目について与えることが非常に難しい。だからこその「言語化」というこだわりであり、それを突破口に成績向上を図っていくというのが私の意図だった。



             最後に1点。言語化とモデル化ともに抽象化における認識行為であろうが、両者には隔たりというか断絶があるのではないかと思っている。これは「リアル文系」と「リアル理系」の違い、思考様式の差異にも関係するのではないか。



             私はド文系だから言語的認識とそれによる思考を重視する。数学の授業予習をしていても、教えるという前提に立てばこそ、それをどう言語化して生徒達に伝えるか(汎用性のあるものにするか)という点に意識が行く。



             しかし、「できる理系」というのは、こういう「言語化」を伴った思考をもって数学に対してはいないだろう。おそらくコメントをくれた人も理系で、そうした立場から私の「言語化=抽象化」に違和を感じたのだと推測する。



             こう考えていてふと思い出したことがある。かつての勤務時代、バイトとして理系東大生を2人使ったことがあるのだが、2人とも「教える」のがものすごく下手だった。説明(言葉!)をもってして上手に生徒を納得させられない。彼ら自身のパーソナリティも当然あろうが、今改めて思うのは、彼らは自分が問題を解いたプロセスとか理由を言語化するのではなく、ひらめきや直観を相当先行させる形で問題に対しているのだろうということだ。言葉による認識をはるか後方に置き去りにしてでも通用するひらめきと直観が彼らにはあるのかもしれない。だから自分が到達した地点を言葉で生徒に説明しようにもうまくできないのだ。もちろん文系だって習熟してくれば言語を介さずとも補助線としての半径が引けるような「プチひらめき」は当然あるが、「リアル理系」にはおそらく、言葉とはまったく隔絶した数式や図形処理のための思考回路があるのだろう。こうした思考様式の違いがあるとすれば、「言語化」というものに違和感を表明するのもむべなるかなというところではある。





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