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一所懸命
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     先日、高校時代の仲間とのちょっとした集まりがあった。仕事があったのでちょっと遅れていったのだがあっという間にバカ話に花が咲き、一気に昔モード。青春時代(クサっ・笑)をともにした仲間というのは長い間会っていなくてもすぐに昔と同じ空気感をもつことができるのがいい。忙しいこの時期だが何物にも代え難い貴重な時間だった。



     アレコレ話している中、やはり私の仕事の話も出る(年齢的に学齢期の子どもをもつ親が多いから)のだが、なんと仲間の1人がこのブログを読んでくれているという。ツイッターとフェイスブックにもリンクさせているから知り合いで読んでくれている人もいて当然なのだろうが、面と向かって読んでいると言われるとなんともこっぱずかしい。こう見えて結構シャイなのだ(←マジで)。



     「ブログ読むとホントにgenが真面目に教育のことを考えているって分かる。俺の子がもし勉強を頑張りたいって言ったら、genのところにお願いするよ」。肩肘張った四角四面の塾運営とブログだが、嘘やセールストークは一切ない。ふとした時に不器用だなと思ったりもするが、そんな自分を認めてもらえるのは、恥ずかしくもあるが嬉しい瞬間だった。



     今日のタイトル、「一所懸命」。今更一所懸命の語源でもないだろうが、仲間に「教育のことを真面目に考えている」といわれ、我々大人の役割と言うものを改めて考えた。大人ができることとは、己の職分を全うすることしかない。自分の仕事に誠実でいること。その姿を子ども達に見せること。これが大人の果たすべき最も重要な役割だと思う。「最も」である。掛け値なしにそう思う。



     私は仕事や生き方の不誠実はもっとも忌むべきあり方だと思う。人をだまくらかしたり、ごまかしをもって利益を上げたり、表と裏の顔を持って恥じなかったり…そうしたあり方は子ども達、若者達を巻き込む。子どもは大人を見て育ち、大人の生き方の内側で生きている。自分だけ不幸になるならまだアレだが、不誠実は見えないところで人を巻き込んでいく。



     私は塾の仕事における誠実さは生徒達の成績を上げることだと思っているので、そのことに関しては妥協なく取り組んでいきたい。しかし、塾の中にはその点があいまいなところも多くあって、成績が上がれば自分の手柄にするくせに、上がらない場合は「部活中心だから」「能力的な問題」と言って憚らなかったりする。



     成績向上に妥協するなら、例えば「ウチは成績向上にこだわらない塾です。部活中心だったり小学校時代に勉強から離れた生徒にとっては大きな飛躍は難しいもの。それなら、飛躍を期して過大な負担を生徒に強いるのではなく、生徒達の心の居場所を提供し、生徒達が自己肯定感をもって中学校生活を送ることを全面的に後押ししたいと思います。〇〇塾は、生徒達一人ひとりの今のありかたを肯定することを第一に考えます」なんてやった方がよっぽど誠実だと思う。(書いてみて思ったが、こんな塾があったとしたらウチとは相当違うな・苦笑)。




     成績は簡単には上がらない。成績向上に邁進しながらも、そのことは声を大にして言わなければならないと思っている。しかしながら、塾とは簡単に成績を上げてくれるところという、誤った認識を生みかねない扇情的なコピーが巷には氾濫している。私が成績を簡単に上げる術を知らないだけなのかもしれないが、少なくとも私にとって、成績が簡単に上がらない代物だということを正直に伝えることも誠実なあり方である。折り込みチラシに「成績は簡単に上がりません」と書いたのはそんな思いもある。



     一所懸命やっていれば認められるほど世の中は甘くないのかもしれない。しかし、一所懸命やらないところにも道は開けないと思う。いや、一所懸命やらずに開ける道ならそっちには行きたくないな。きつくても自身の考える誠実さをもって歩いていける道を選びたい。




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    些細なことあるいは神が宿る細部
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       今週末、自塾のチラシが地域の新聞に折り込まれる。相変わらず小さい文字がズラズラ並ぶチラシ(それでもデザイナーさんのアドバイスもあって随分文字数は減らした)だが、チラシをうつに際してに私が自分に課しているルールがある。それは在塾生の保護者の方に、チラシよりも先に新年度の時間割や料金のお知らせを配ることだ。チラシは1月末に撒くが保護者向けの新年度のお知らせは2月に入ってから、というのは絶対にやらない。これは礼儀として当然のことと思っている。



       これは「んなもん、誰も気にしてないよ」ということかもしれないし、もしくは「そういうことに気を配るのは当たり前だろ」 ということなのかもしれない。果たして世間(塾業界)の常識がどちらなのかはよく分からないが、私としてはこういうことに気を配ることはとても重要なことだと思う。月謝も時間割も旧年度と変わらなければお知らせは後でいい、生徒達に「年度が変わったら
      今年の〇年生と同じ時間割だから」と口頭で知らせておけばいい、とする向きもあるが、それは仁義にもとるというのが私の立場だ。新年度に関するアナウンスは、まず在塾生とその保護者に。そして、チラシ等を通じて地域に、とするのが自塾に通ってくれていることに対する最低限の礼儀だろう。



       こういう細部に気を配れるかどうかは、塾のもつトータル的な雰囲気や学習風土に当然影響してくるはずだ。勉強とは細部にこだわることである。事務であれ教務であれ自身の塾業務の細部にこだわれなくて、どうして生徒達に勉強の細部へのこだわりを求められるだろうか。



       私自身は実は相当アバウトな人間で、原稿書きや教材作成など、実は(自身が決めた)締め切りが近づいてこないとやる気がおきない。いつも直前にバタバタガチャガチャやるタイプなのだが、そうだからこそ、決め事だけはしっかり守るようにしている。「これは死守」ということがらをいくつも設けて、それは必ず実行しないとなし崩しになってしまう。



       今時期は入試直前で追い込みをかけるのはもちろんのこと、受験学年以外の指導、新入塾生の募集、諸々の新年度準備、確定申告などなど、一年で最も忙しいと言える時期だ。だからこそ細部をゆるがせにせず、果たすべき務めはしっかり果たしていかねばならないと思っている。些細なことと軽視するのではなく、神が宿る細部としてこだわりを込めていくことがこの時期こそ重要なはずだ。



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      自学自習への道程
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         今日は中2の緊急補講を行った。本来宿題とするべき作業を塾で演習としてやらせてその取り組みを見るためだ。こうした理由はもちろん、「最近、宿題のやり方がちょっと甘い」からである。



         案の定、今日までの宿題をチェックしたら半数が「手抜き気味」。やってはあるが私が要求しているやり方ではない。まあ女子だったのでちょっとだけカミナリを落し(ホントにちょっとだけです)、適切なやり方でやり直させた(男子はこないだカミナリを落としたからちゃんとやってあった)。



         進学塾Uineは解答を持たせて自分でマルつけまでさせるスタイル(つうかそういう塾のほうが多いですよね?以前の勤務塾は違ったけど)なので、学習姿勢がきちんとしていないと勉強の効果は当たり前だが全く上がらない。中学生くらいだといつも私の指示・期待通りにやってくるとは限らないので、色んなやり方で勉強を正しい方向に矯正していく必要がある。



         ここでいう「正しいやり方」とは、当然「自学自習」のことである。勉強の理想は「言われなくても自分でできること」である。教師の「教える」は、生徒が最大限の努力をしても超えられない壁を越えるためにある。だから、いつでも何でも教えることは間違いなく生徒のためにならない。



         じゃあ教師は教えずに、なんでも生徒自身に考えさせればいいのかというとそんな乱暴な話はないのであって、その到達度や発達段階を見定めて手を変え品を変え働き方を変える必要がある。我々専業塾講師の存在意義はこうした見極めにあるといってもいい。


         生徒が「先生、これ、分からないんですけど…」と質問をもってくる。この仕事を始めてもう20年目になるが、今でも緊張する局面だ。どのように対応すべきか。どう答えてあげればこの生徒の自学自習に繋がるのか。そんなことを考えながら質問に対応する。自身の対応に磐石の自信を持てることもあれば、「ああ、こういうふうに言ってやればよかったな…」と後悔や反省ばかりが頭をよぎることもある。生身の生徒を教えることに、たった1つの正しい正解などない。分かっているが、今日もベストな対応を模索してもがき苦しむ。



         中3生は都立入試まで残り5週間を切り、過去問演習を中心にした勉強を積み重ねている。この過去問演習というのは生徒達の自学自習力が最も試される局面だ。これまでいかにその力を育んでこれたかが問われる。もちろん、こちらの指導力という意味で。 



         過去問を解く。自分でマルつけをする。間違えた問題がある。じゃあどうする?解説を読むことになるわけだが、過去問集の解説というのはかなり・相当乱暴なものもあって、中々どういうことを言っているのか理解しづらかったりする(特に数学)。ここで自習力が問われることになる。ちょっと解説をよんで「分かりません」となるのか、その解説を理解しようと奮闘できるのか。もちろん時間の関係や問題レベルにもよるのだが、自信で理解しよう努力できるのが最後まで実力を伸ばす生徒だ。



         もちろん、こちら側の対応も問われてくる。これが分からないと質問されてホイホイ答えるのではなく、解説を解説したり、口頭で答えるのではなく自作の解説を渡し、それを読ませて理解させたりと、最後の最後まで生徒達の自学自習を成就させる工夫をしなくてはならない。



         「質問が出ない」ということにも大いに留意せねばならない。「分かっていないのに分かったとしてしまう」中学生は本当に多い。そういう特性を理解し、いかに「自分は本当は分かっていなかった」という自覚を穿てるか。これも我々の大事な役目だ。例えば数学の作図など、都立共通問題くらいだと解答解説を見れば「ここに垂直二等分線」とかが簡単に分かるので、同じ図をかければOKとしてしまう生徒がいる。じゃあなんでここに垂直二等分線なの?と尋ねてみると分からないことがままあるのだ。こうした陥穽は教師が問題と生徒の勉強特性をしっかり理解して、「適当はダメよ」のメッセージを常に発して埋めていかなければならない。



         いい授業をやるのは当たり前だし分かりやすい解説ができるのも当然。我々個人塾講師の仕事は圧倒的なそれらをベースにしていかに個別の対応ができるかにある。





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        入試に何を求めるか
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           都立一般入試まであと5週間となった。週明けには私立高校推薦入試、来週日曜と月曜には都立の推薦入試と続き、いよいよ東京都の高校入試がスタートする。生徒達にとって「人生を変える」と言っても過言ではない高校選択の時がついにやって来た。私にとってこの仕事に就いて20回目の入試となるが、毎年のことながらものすごく緊張している。いつも調子の悪いお腹が、年が明けて以来さらに具合が悪い(苦笑)



           入試というのは間違いなく結果が問われる。それは我々塾にとってだけでなく、生徒達にとってもどの学校に合格した(入学する)かがその後の人生に大きくかかわるからだ。



           結果と過程というのは対立項としてその価値が対等に置かれたりもする(都立入試の英語でもそんな文章があった)が、過程というのは結果が伴うからこそ輝くのであって、ぶっちゃけ結果が出なかった過程を礼賛するのは「なぐさめ」や「言い訳」であったりすることが多い。少なくとも我々の仕事に引き当てて考えてみた時、「結果が出なかったけれど頑張った」的な言い方は教師の側がしてはならないと思う。我々は何よりもまず合格の2文字を生徒達が得るために尽力する存在であり、それが己のアイデンティティだということを忘れてはならない(自戒を強く強く込める)。



           塾講師の中には「落ちて学んだほうがいい」的な言い回しをする人もいるが、私は賛同しかねる。こういう言い方は「だらしな系」「勉強なめてる系」の生徒に対して発せられることが多いが、そうした言い回しは言うことを聞かない生徒に対する降参宣言もしくは捨てゼリフに聞こえてしまう。やはり落ちたらダメなのだ。我々は何が何でも合格へと導き、そこから学ばせなければならない。首に縄をつけるような密できついかかわりをしてでも、生徒を動かし合格を勝ち取る指導をしていかなければならないはずだ。



           合格にこだわるとどうしても進路指導が安全パイになりやすい。これでは学校の進路指導と同じである(失礼言ってスミマセン)。ほぼ確実に合格できるラインの高校を受験することが悪いことばかりだとは思わないが、きつめの目標に向けて自分を変える努力をし、過程と結果をともに両手で掴み取って欲しいと思う。



           ただ、チャレンジといえば聞こえはいいがそこには大きな葛藤がある。都立入試で言えば、制度上受験機会は1回だけ(推薦を除く)。単独選抜という現在の制度の中では、「チャレンジ、冒険→ダメなら都立はあきらめて私立進学」という極に振れることになる。合格ボーダー上の生徒がどのような選択をするのかについて、一概によしあしは決められない。生徒も保護者の方も、自身が(子どもが)行きたいと願っている学校にチャレンジしたい・させたいと思っている。しかし不合格なら都立はあきらめなければならない。これは非常に重いことだと思う。



           だから過程と結果にこだわるという姿勢は、我々が生徒と保護者の方の様々な思いをガッチリ背負う覚悟からしか生まれない。結果にこだわりましょう。合格に2文字をなんとしても。そしてそのための努力を遮二無二していきましょう。不可能を可能にするために。こうした「綺麗ごと」を形にする(少なくとも形にするために粉骨砕身する)のが我々の役割だ。その覚悟なくしては受験という人生の大事にかかわれない。





           
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          生活と性格
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           今月末〜来月にかけて新聞折込チラシをうつ。ウチは口コミ入塾中心で折り込みチラシの効果は中々実感できないのだが、それでもやはり「進学塾Uine、やってるよ!」みたいな存在アピールは必要だ。ということで現在はチラシ原稿に奮闘している。



           猫ギター先生のアドバイスもあり、今回のチラシでは指導実績を「あざとく」アピールしようと思う。理念的には立派でも実践で証明されなければ絵に描いた餅だ。塾というのは当然のことながら結果が問われる存在なので、その結果をもって支持を問うてみようと思う。入試結果はまだ1年しかでていないので定期テストと内申点中心にあらためて成績を集計してみた。



           例えば

          「入塾半年で定期テスト5教科120点アップ(中3)」とか

          「入塾1年で定期テスト5教科134点アップ(中2~中3)」とか

          「入塾8ヶ月で内申点5点アップ(中3)」とか
          色々ある(アピ〜ルw)。

          定期テストで言えば、30点から80点くらいの得点向上を果たした生徒は多い(ここでもアピ〜ルw)。きちんと集計した結果、中学生の約82%が入塾以来定期テストで30点以上の伸びを示している。



           でもですね、私の塾みたいなきつい塾で数十点の伸びなんて当たり前と言えば当たり前。これだけやって全然伸びません、ではお叱りを受けるだろう。これまで得点の伸びなんかを大きくアピールしなかったのは、これくらいは当たり前でもっともっと向上を目指さなければ恥ずかしいと思っているからだ(今でも上程度の成績をアピールするのはちょっとひっかかる。もちろん、これだけの向上を見せた生徒一人ひとりの頑張りは大いに褒めてあげたい。あくまで指導する私の指導力、という意味)。



           点数が伸びた生徒も、もっと伸ばしてあげられるだろうという思うと同時に、成績が伸びていない2割弱の生徒の成績をどのように上げていけるのか。日々奮闘しているが難しさを感じることが多い。それはそうした生徒達の成績向上を阻害している要因が彼ら彼女らの生活と性格に大きく拠ると思うからだ。自身の指導力を棚に上げて何を言う、という自責がないわけでもないが、我々塾講師が手を突っ込みづらい領域というものは当然あり、それが生徒の生活と性格だと思う。



           生活が成績向上を阻害するとき。それは中学生の場合、「部活」による時間拘束とそれによる体力消耗が最も大きい(塾に通おうと思う中学生で「ゲームばかりやっていて」とか「遊び歩いていて」みたいな子はほとんどいない。そういう生徒はそもそも塾に足を踏み入れない)。部活に関しては何度も書いてきたのでここでは繰り返さないが、「熱心な」部活に参加していることは成績を大きく向上させたい、させなければならない中学生にとって大きな足かせとなる。これは非常に深刻で難しい問題だと思う。



           性格が勉強に与える影響も絶大だ。素直さが勉強にとっては非常に大きなアドバンテージになるのは言うまでもないが、逆に言えば「人の言うことを聞かないタイプ」は勉強にはマイナスとなる。これも当たり前といっちゃ当たり前で、発展途上の小中学生にとって、勉強するとはイコール「教師の言うとおりにやること」であるからだ。指示通りの作業ができない者が「俺の考え」「私のやり方」に固執して成績が伸びたためしはない。



           男子に多いのが「プライドが高い」タイプ。私も覚えがあるが、とにかく「分からない」と言いたくない、「できない」ことにしたくないという生徒がいる。できないのに、分からないのに質問せず、解決済みのこととして先に進んだりする。質問という面倒な作業を嫌うというケースもあるが、一定の割合でプライドが質問行為を避けさせているのだろうと思わせる生徒がいる。おそらく自身は意識せずに質問する≒分からない、できないという言明、を忌避しているのだろう。こういう生徒の現れ方というのはガチガチに自分を防御するという目立った形ではなく、ひっそりと自分の世界を守ろうとすることが多いように思う。



           思春期の生徒達にとって自尊心、自尊感情というのは言うまでもなく大事な、かけがえのない「アイデンティティ」だ。そこに土足で踏み込み、両手でグチャグチャ引っ掻き回わすのはよくないことに違いない。しかし、それが成績向上を阻害しているとしたら、我々に何ができるのか。「触れてはいけない聖域」としてそのプライドを尊重し、「できない」を認めないあり方をゆるく見守っていくのか、それともあえてそこに入り込んで「できる」という実感で新たな自尊心を手に入れる道筋を示すのか。私は自分の職業倫理として後者を選び取りたい。場合によっては生徒を大きく傷つけたり互いの信頼関係を損なうことがあるかもしれないが、成績向上を目指すという己の職分を全うする姿勢をどんなときも変えないでいたいと思う。





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