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塾講バイト
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     先日出講している予備校の合格を祝う会があった。約10ヶ月しか勉強をともにしていないが、合格した生徒達の晴れがましい表情を見ると文字通り受験の終わりを実感せずいはいられない(そのせいか会が終わったらとたんに体調を崩した)。


     

     「合格」というくくり方は非常に乱暴で、その裏には当然のことながら「不合格」が、さらに合格にも「第二志望」「不本意」などの鬱屈した感情が内包されていることがある。


     

     受験は人を成長させる。第一志望合格でもそうでなくとも、その過程と結果から何かを得なくてはならない。受験を終えた生徒達には今、その「結果」を強く深く噛みしめてほしい。大きな達成感も挫折感も、自分を成長させるという意味では等価のはずだ。自己肯定と否定の狭間で揺れ動きながら胸を張って大学に入学してもらいたい。そして大学でさらに勉強を積んでもらいたいと思う。


     

     大学生活を構成する「主要素」の1つにバイトがある。本業は勉強だが、本を買うにもPCを新調するにもお金が必要で、そのためにはバイトをして自分で費用を捻出しなければならない。本業を圧迫しない程度のバイトは必要不可欠だろう(恥ずかしながら私は本業を圧迫するほどバイトばかりしていました;;)。


     

     大学生のバイトというと、外食と塾講が王道だろうか。祝う会で顔を合わせた生徒達のなかにも塾でのバイトを始める予定の子たちが何人もおり(みな女の子)、「アドバイスをください!」とか「どういう風に教えたらいいですか?」とか尋ねられた。


     

     彼女たちがする塾講バイトは個別指導である。個別指導は「大学生にでもできる」のが大きな特徴で、「自分だけを見てほしい」という顧客ニーズと「尽きることのない『人材』」をベースにした指導形態が絶妙にマッチし、塾業界における一大勢力を築き上げた。


     

     個別指導塾に包囲された塾運営をしている私にとって、個別指導塾はライバル、いや、どぎつく言えば「商売敵」である。彼らにない指導力を売りにかかげなければ、正直生き残れない。


     

     そんな私に個別指導塾での指導アドバイスとはなかなかの難問だが、ぜひ目指してほしいのは「生徒達の気持ちに寄り添う先生になること」である。

     

     ぶっちゃけ大学生が週に数回のコマをもつだけでは、指導法だとか指導力だとかは熟練の専業講師の足下にも及ばないことがほとんど。そういうことより、生徒達の延長線上にいる「お兄さん、お姉さん」「ロールモデル」として、彼らの気持ちにより添い手本を見せること。これが大学生塾講の存在意義だと思う。


     

     我々専業講師はその立場上生徒達とは隔絶、断絶している。彼らの気持ちに「寄り添う」のは当然としても、それは「学習指導をする教師」としての立場をもってしかすることはできない。例えば生徒が部活でタイトな生活を送っていても、やることをやらなければ叱責するのが我々の仕事だし、そこに変な温情を入りこませるのはかえってためにならないと考えるのが専業講師だ。


     

     大学生講師は、そうした生徒のつらさきつさに文字通り寄り添うことができる。「私も大変だったな。でも色々工夫して頑張ったよ。あなたもできる!」とか「つらい時はちょっと休んでもいいんじゃない。室長にはナイショでね(ホントはこんなのダメ・笑。でもこういう考え自体が「生徒と隔絶している」ところだ。もちろん悪い面ばかりではない)」など、身近な存在として生徒達の気持ちを鼓舞し、癒すことができる。特に女性の大学生講師のもつ、優しい柔らかな指導によって救われた生徒をこれまで何人も見てきた。


     

     教え子が塾講をやると聞くと「これでお前も教えることがいかに難しいかが分かるよ。俺たちの苦労を実際に味わってみなさい!グハハハ!」とか言う講師もいる(実際いっぱいいるw)が、そんなことはどうでもいい。生徒達に寄り添う存在でいること。そこにしか大学生講師の存在意義はないし、またそれが最大の武器でもある。塾でバイトをする私の教え子たちへ。みんな生徒達に信頼される先生になって下さい。 






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    通知表の「幅」
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       年度末を迎え、小中学校では通知表が配布された。



       中学校の通知表だが、相変わらず「幅広い」結果という印象。同じオール3、オール4でも生徒の実力(偏差値)には相当の上下幅がある。実力との相関性は非常に薄い。点数以外の要素も大きく加えて絶対評価での評価なのだから、仕方ないといえば仕方ない。



       ただ、何度も言っているように学校には通知表しか進路指導の材料がない(時々「Vもぎ・Wもぎの結果をもってこい」という先生がいるが極めて少数派)のだ。入試本番で「ミスマッチ」が起こる原因の1つに、通知表と偏差値の結びつきが弱さにもかかわらず学校が通知表のみで進路指導を行うという現実がある。これは我々塾の仕事をしている者にとっては常識である。



       ただ、このことが周知されていると言えばそうではない(通塾していない家庭は入試の情報は一般的なものしか知ることはできないのだから致し方ないのだが)。今春の都立入試が過去最高の倍率で非常に厳しかったというのは色々なところで触れられているが、「厳しい」という結果に上記の「内申と実力の乖離によるミスマッチ」が結構あるように思う。「ギリギリの悔しい不合格」ではなく、「そもそも実力的に開きがあった」というものがそれだ。




       近隣の中学で耳にしたケースで気になったのは2点。1つは合格率の極端な悪さ。「○○中ではA高校を受験したのが10人いたが2人しか受からなかった」「同じくB校は7人中1人だけが合格」―こんな話を片手では収まらないほど聞いた。都立の倍率がいくら高かったとは言え不合格が多すぎる。特に偏差値40台後半から50台前半の「平均ゾーン」が多い。



       もう1つは学校の進路指導にたいする「恨み言」。「先生が大丈夫だと言ったのにダメだった」「先生がきちんと進路指導してくれなかった」―学校の先生の進路指導にたいしての不信感や恨み辛みが結構ある。



       この2つは当然のことながら結びついている。内申しか進路指導の材料がない先生が内申だけでGOサインを出した(もしくは家庭と生徒に丸投げの進路指導)が実力は伴っておらず不合格続出、という図式だ。



       学校の先生方も気の毒だ。内申だけで都立入試の合格を見積もることは不可能である。特に通知表で「オール3前後」の生徒の実力幅は相当ある。私のもっているデータでは地域だとオール3で偏差値42〜52、53と約10ほど偏差値に幅がでる。オール4だと48〜60弱である。「オール3だから(オール4だから)○○高校で大丈夫だろう」はまったく通用しない。



       絶対評価になってから「内申は悪いけど、実力(偏差値)はある」という生徒は減った。そのかわり逆のパターン、「実力(偏差値)は低いが内申はある」は激増である。「インフレ通知表」とはよく言ったもので、インフレとしか思えないケースが多い。だから入試でミスマッチが起こるのだ。



       対処法は1つしかない。学校現場に偏差値を呼び戻すことだ。偏差値1人を悪者にしてゆとり教育に突き進んだ過去を反省し、生徒達の実力を測る尺度としての偏差値を、もう1度手にすることである。私は内申廃止論者なので内申こそ廃止すべきだと思うが、そうなったらなおさら当然偏差値がなければ進路指導ができない。入試における競争が激しくなっている以上、今のままでの通知表と進路指導体制では来年度もミスマッチが多く起こりかねない。



       

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      集団指導への懐疑と疑念
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         昨日、中学生の問い合わせの電話を頂いた。保護者の方はチラシの内容について色々質問をされたあと、ちょっとだけ言いづらそうにこんなことをおっしゃった。



        「そちらは集団指導ということですが、あの…きちんと見ていただけるのでしょうか…」



         今年度はお問い合わせの電話や面談でこうした「集団指導への懐疑」を頻繁に耳にする。開校初年度の昨年はなかったことだが、これが地域の保護者の方の偽らざる本音なのかな、とも思う。曰く、



        「集団指導はできる生徒は相手にするが、できない生徒はほったらかしにいらしい」


        「内容について質問をしてもあまり答えてもらえず、先生がかまわず進んでまう」


        「ある塾では後ろの座席には眼が届かず、ゲームをやっている子がいる」(←どこだか分かっている・笑)



         まあ、こういう質問をぶつけられたら、百聞は一見に如かずで体験入塾をしてもらえればどんな塾かお分かり頂ける、と申し上げるしかない。授業に参加してもらえれば「そんな塾とは違う」ということが実感できると思う(真顔です)。



         地域にウチのように「集団指導」を前面に謳った塾は皆無と言っていい(集団指導自体は少ないながらあるにはあるが)。また近隣(自転車で10〜15分圏内)に「個人塾」自体がものすごく少なく、多教室展開の個別指導塾ばかりである(隣の錦糸町駅まで行くとenaや市進、城北スクールなどの大手集団指導塾がある)。



         だから生徒や保護者の方から聞くところによると、地域で「塾に通う」というとまず「個別指導」ということになるそうだ(集団指導が少ないのだから当たり前か)。それに加え、数少ない集団指導が悪い評判を広めているのか、はたまた偏見がひとり歩きしているのか、上で紹介したような集団指導に対する「懐疑」「疑念」が随分あるようである。



         集団指導や個別指導の違いも重要だが、塾は何より「先生」で決めるべきだと思う。こんなことを言うと「お前はそんなに自分に自信があるのか」という突っ込みが入りそうだが、自分に自信があるとかないとかではなく、学習指導において最も重要なのは「信頼」だと思うからだ。保護者の方が、生徒自身が、「この先生の言うことなら」という信頼をベースにすることが、成績を伸ばすもっとも重要な要素であるはずだ。費用や合格実績、自宅からの距離等も大事だが、それは「信頼できる先生」のあとの勘案事項だと思う。



         だから我々は保護者の方や生徒からの信頼を得るために自身を磨かねばならない。ただし忘れてはならないのは、我々が磨いていく「自身」とは「人間性」ではなく、「勉強と成績向上に対する誠実さ」が前面に来るべきである。優しくて暖かい「豊かな人間性」をもった先生でも、成績を上げられなければ塾講師としてはダメなのだ(もちろん優しく暖かくて包容力があり、なおかつ成績を上げられる講師であるのに越したことはないが)。 






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        大学入試と英語と高1授業
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           今週から新高1生の授業を本格的に開始した。


           以前も書いたように高校部をつくるのはもう少し先のつもりだったが、中3生と保護者の方々にご要望頂き、予定を前倒しした。小中学生の塾としての足場も固まっていないうちに高校部をつくることには抵抗がありものすごく悩んだのだが、最終的には「悩んだらやれ」という自分のモットーに従った。 


           高1は最初から全速力である。文法・構文の解説授業を行い、単語と文型判断、基礎構文の英作文テストを並行して行う。高1のうちに読解に必要な文法と基本的な単語力は身につけておきたい。単語はZ会の『速単・入門編』を、構文はこちらもZ会の『101』を使用する(もちろん演習用に他のテキストもある)。前者は遅くとも秋までには終了させたい(簡単だから)。


           大学受験指導をやっている講師なら誰でも感じていることだと思うが、大学入試は英語でほとんどが決まる。「英語だけできて他はダメ」な生徒ならそれなりの大学(成成明武くらいのイメージか)に合格できるが、「英語だけできない」生徒が合格できる大学は相当下のレベルになる(今は『合格できる大学がない』ということはない)。昨年度予備校で教えていた生徒の入試結果は、順当に「英語のできる順」に落ち着いた。私が教えている現代文は、残念ながら「オマケ」「補強項目」である(もちろん最上位大学は現代文・小論文ができなければ当然ダメ)。また、高校時代の友人で「英語の偏差値40・数学物理の偏差値70」というのがいて、「俺は英語をやらずに大学に合格する」とうそぶいていたが、彼は2浪して私大の2部に行った。事程左様に英語は重要なのだ。


           また、大学入試の結果は、高校入試時点の偏差値・進学した高校のレベルと強い相関性がある。独断で大雑把にグループ分けしてしまえば、都立高校で総合得点800点(偏差値60〜レベル)ならGMARCH以上、700点(偏差値54位~レベル)なら成成明武以上、600点代以下はそれより下の大学というところに収まる(もちろん現役での話)。要するに規準は違えど、大学も入学した高校の偏差値とそう大きく変わらないところに合格するということだ(国立大はまた違った要素が加味されるので一概に偏差値だけで判断できないが、現役で合格するには総合得点800点以上の都立でなければ難しい)。


           例えば地元墨田区の墨田川高校。我が母校なのであれこれ言ってもいいだろう(笑)。ここは合格基準では総合得点は700点をちょっと切る(今年は超えたかな)。偏差値は52,53が合格者の下限だろうか。平均はおそらく55くらいだろう。


           教え子もたくさん通っているが、墨田川でGMARCHに合格するのはクラスに1~2名いるかいないかだ。成成明武や日東駒専がメインである。墨田川で「頑張って受験勉強した」生徒の収まり方は大体こんな感じになる。


           墨田川は最近GMARCH以上の合格実績をあげてきているが、そのほとんどは2クラスある「特進クラス」の生徒が出した結果である。墨田川は偏差値50代前半から合格者が出るが、都立入試が厳しい今、成績に余裕のある層が安全策で受験するようにもなっている(そういう教え子がこれまで何人もいた)。特進クラスの生徒はおそらく入学時点で60程度の偏差値があるだろう。こうした生徒がGMARCH以上の合格実績をつくっていると思って間違いない。


           高校部をつくった一番大きな理由は、こういう「既定路線」的な大学進学の現状を打破し、生徒達を高校入学時点からステップアップさせたいからだ。竹早や駒場からGMARCH、墨田川や城東から成成明武は「普通」の結果なのである。そうではなく、総合800点クラスの都立からなら早慶、700点クラスの都立からGMARCH、それ以下の高校からでも成成明武クラス以上を目指したい。そのための「高1しょっぱなから全速力」である。特に東京都は入試日程が終了するのが早い。都立推薦の生徒なんか、合格から入学まで2ヶ月もあるのだ。ここで勉強の感覚を鈍らせてしまう。だから、特に勝負の英語だけはチンタラやってたらダメなのである。


           私は高校時代、英語は(も)できなかった。できなかったからこそ、感覚ではなく理屈で「できるようになる」すべを心得ているつもり。それを生徒達に伝えていきたいと思っている。





           
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          通塾雑感
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             昨日はいろんな思いから、私にとっての普通の日曜日として過ごした。 その時刻だけはカミさんと二人、目を閉じたが、午前中は仕事、午後からは家族との時間というふうに、どうってことのない日曜日にした。


             震災以降、ツイッターではそれなりに自分の意見をポストしたりしてきたが、そういう「1人の市民の声」が決して善意の集合にはならない(かえって害悪としか思えないものもある)という当たり前の事実を前に、震災と関連することがらについて自分の意見を声高に言うのを避けてきた。


             一瞬で命を奪われた人がいる、今での不自由な暮らしを余儀なくされている一方で、我々には平穏な日常が流れている。その中で私に何ができるのか。被災者の方々と被災地のもっとも役に立てるのは「お金」と「労力」だろうが、そのふたつに関して、今の私が力になれることはほとんどない。


             昨年のこの時期、私は生徒達に塾通信を通して「新生日本を支える力となるためにしっかりと努力していこう」という趣旨の呼びかけをした。私にできることはそのサポートしかない。その「私にできること」を全うしてきた1年だったろうか。しばらく前からそんな自問自答を繰り返している。


             表題の「通塾」について。最近2つほど、通塾について考えることがあった。1つは通塾一般について、もう1つは私個人(我が家)に関係することだ。


             先月、知人から「塾について相談がある」との連絡があった。聞いてみると、中2になる息子が2ヶ月前に入ったばかりの塾を止めてしまったとのこと。一体何で?と尋ねると「なんだか、もう通うのがイヤなんだって」。


             親には言えない人間関係のトラブルでもあったのでは、とも思ったが、どうもそれはない模様。話を聴いていくうちに見えてきたのが「子ども主導の塾選び」という通塾動機。通塾は子どもが言い出したことで、そのきっかけは「友達が行っているから」というものだったらしい(勉強は余り好きではないとのこと)。なるほど、だから止める際も「イヤだから」という理由なわけだ(「そんな理由で止めさせちゃったの?」と思わず言ってしまった)。


             これは私が何か言ってどうこうなる問題ではない。「子どもの主体性尊重」という子育て方針とそれに基づいた現在の親子関係が根っこにあるからだ。まずはそのことを「やんわり」伝え、「勉強の意味と意義、塾に通うということについて、親自身がしっかり考えてから塾通いを再検討した方がいい」とも話した。


             他の習い事と異なり、通塾に関しては「親主導」と「子ども主導・子どもの意思尊重」は真っ向からぶつかることが多い。なぜなら、親は「できるだけ勉強させたい」が、子どもたちは「できるだけ勉強は楽に済ませたい」と思っていることが多いからだ(親自身が「子どもには無理をさせたくない」と思っているケースもあるが)。大部分の小中学生は、宿題やテストが多く、ルールもガチな厳しい塾より、宿題があまりだされず、先生とも友達感覚で接することのできる「楽しい」塾を選ぶ。もちろん友達がいない塾ではなく、たくさんいるところを選ぶのは当然である。


             後者の塾で、成績が劇的に向上するということはない。繰り返し述べているが、成績の向上とはディテールの積み重ねである。学習そのものにおもしろさを見出すには、単調な作業に耐える、膨大な知識を時間をかけて蓄積していく努力が不可欠である。そうした「厳しさ」が勉強には必ず付随してくる。


             だから私は通塾は「親主導」であるべきだと思っている。親は子どものために道を示してやる責任がある。主体性の尊重はあってしかるべきだが、いまだ「未熟な」子どもの主体性を、ときに否定し修正するのも親の役割だろう。もちろんそれができるための親子関係が築かれていなくてはならないが。


             塾選びは「塾長・教室責任者選び」である。「大手がいいから・大手はイヤだから」「友達がいるから・いないから」「家から近いから・近いのはイヤだから」「月謝が安いから・月謝が高い方がよい指導が受けられそうだから」などなどは二次的、三次的要素。まずは親が塾長・教室責任者と話をして、「この人なら信頼できる・我が子の勉強を任せられる」ということを確認すべきだと思う。


             塾選びは難しい。私は選択される立場であり、生徒達の成績向上を心から願って塾を運営しているが、それが保護者の方と生徒自身両方の納得を得られるとは限らない。いや、いつも勉強の厳しさを包み隠さず話しているので、生徒自身は引いてしまうことが多いだろう。耳障りの良い言葉で入塾を促すのはイヤなので直球を投げているが、もう少し言い方もあるかな、と不器用さを痛感することもある。


             もう1点は我が家の通塾に関して。息子も今年5年生となるので、そろそろ塾通いを検討する時期に入ってきた(自分が小学部からの塾運営をしているので、当然息子も小学生のうちから塾に通わせるつもりである)。このことに関しては、以前のエントリでも書いたのだが、私の塾には通わせず、どこか別の塾(当然個人塾)にお世話になろうと思っていた。理由は2つある。1つは、私はきつめの父親なので先生の立場までまとって子どもに接するのは避けた方がいいだろうということ。もう1つは塾に子どもを通わせる親の立場を自分も経験すべきだと思っていたこと。


             友人とこのことを話していたら、こんなふうに突っ込まれた。


             友人:「じゃあさ、○○(息子の名前)は近所の塾に通わせるってわけね?どこか目星がついてるところはあるの?」

             私:「いや、なかなか難しいね〜。」

             友人:「そもそもさ、お前自身が塾について偉そうなことばかり言ってのに、「ここなら」って思える塾が簡単に見つかんの?」

             私:「(西東京にはある。ゴニョゴニョ)」

             友人:「あとさ、仮に○○を近所の塾に通わせたとしてさ、○○の友達のお母さんが『今度塾に行かせようと思うんですが、○○君のお父さんがやっている塾と、○○君が通っている地元の塾と、どっちがオススメなんですか?』って尋ねられたらどう答えんのよ?あぁ?」

             私:「」


             全く答えに窮してしまった。偉そうなことを言っているが案外考えが浅かったと反省。もう少し色々考えてみようと思う。


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