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生徒をどう観るか
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    生徒を「見る」ではなく「観る」である。私の抱いているイメージでは、「見る」は短期的、瞬発的に生徒を観察して関わるスタート地点だ。授業中、自習中、また質問に来た生徒の様子や反応を「見」て、よりよい関わりを開始する。そこでの「見る」はこれまでの経験や知識が動員されて行われるものであり、生徒の学力の今後を方向づける大事ないとなみである。

     

     

    「観る」は日々の生徒との関わりを支える「生徒観」を想起する。子供たちを、生徒をどのように捉え、どのような指導をしていくかの原点となる、教育者としての核と言ってもいい。「見る」がいま・ここで発揮される教師としての力量ならば、「観る」はそれを中長期的に支える決意表明でもある。生徒の「観」方次第で「見」て関わる行き先は当然変化するし、「観る」のあり方は同じ塾講師でも驚くほど異なる。

     

     

    我々塾講師は基本的に学力一点において生徒達と接している。この点において、子供のもつさまざまな力や発達と関わる学校教員とは根本的に異なっている。教員は勉強、運動、リーダーシップ、優しさ、几帳面さ、根気のよさなどなど、多様な面から子供を評価できるが、我々は学力しか評価基準をもたない。「この子は勉強は苦手だけれど○○がいいですね。そちらを評価してあげましょう」など、我々塾講師は口にできない。我々は成績向上を旨に看板を掲げ保護者から大事なお子さんを預かっているのだから、勉強以外の評価基準をもち出すのは基本NGだ。

     

     

    勉強、学力に焦点化された塾講師の評価基準は、生徒の「観」方に大きく影響を及ぼす。端的に言って、塾には「勉強ができない・苦手」が、生徒の存在そのものを「劣」、場合によっては「悪」と観る土壌が存在している。「○○(生徒名)はできないからダメ」「やらないあいつが悪い」「あいつには無理。終わってる」などと生徒を切り捨てる「観」方が、多くの塾、塾講師に蔓延している。

     

     

    先日、とある塾講師対象のセミナーに参加した。開始前や休憩時間には知り合いや同じ塾から一緒に参加した仲間内でのおしゃべりがそこかしこから聞こえてくるが、この日のそれはちょっと不快なものが多かった。私の前に座っていた上司と部下であろう二人の会話。上司とおぼしき講師が教え諭すように語るのは、いかに生徒を御すかという生徒コントロールの「テクニック」。そして言葉の端々にもれる「ダメ」「無理」「終わってる」などのネガティブワード。とてもここでは書けないような話も多く、聞いていて苦痛だった。

     

     

    「できない」「やらない」に対する「観」方の違いを生むのは、生徒への愛情の有無などという情緒的なものではなく、塾講師としての己に対する(半ば無意識的な)立場の捉え方だと、私は思う。自分を生徒より大きな、上の存在として無意識的に捉え、固定化していれば、切って捨てるように生徒を「観」て・「見」て、関わるような態度につながることがあるだろう。一方で自分を生徒の随伴者として位置づけたり、生徒が自身を超えることを望むようなこれまた無意識的な態度は、その可能性を最大限に伸ばすような「観」方・「見」方と関わりを生み出すに違いない。会話に耳をそばだてるだけでなく、多くの先生方と実際にまたSNSなどでやりとりする中で、両者の違いというものをひしひしと感じてきた。

     

     

    「教える」という行為は上と下という立場の固定を常に伴う。どれだけ教授法に工夫を凝らしても、また自省的にふるまってもそこから完全に自由になることはできない。しかし、切って捨てるような生徒観は自分自身の小ささと尊大さの露呈であり、塾講師としてだけでなく人としてのあり方が問われる。私自身、自らがそうなっていないか常に反省的に振る舞わなければならないと思う。「生徒切り捨て観」に陥るのはまっぴら御免である。

     

     

     

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