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住所と親の名前が書けますか?
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    進学塾Uineでは入塾に先立って体験入塾を1日行っている。勉強の得手不得手、授業への姿勢などを見極めるのが主な目的だが、授業以外でも注意して見ているのが「体験入塾表」への記入だ。


    体験入塾表の記入項目は「名前」「住所」「電話番号」「学校名・学年」「保護者名」の基本個人情報と「得意科目」「不得意科目」「何をしているときが一番楽しいか」「自分の毎日を得点にすると?」の簡単なアンケート。体験入塾生は来塾して着席したらまずこの用紙に記入することになっている。ちなみに中学生には「これを書いて下さい」で終わりだが、小学生は学年に応じて「ここは名前ね、次は住んでいるところ。住所ね…」などアシストを出したりする(これにも当然意図がある)。


    ここで私がとりわけ大事に見ているのが「住所・保護者名が漢字で書けるか」である。小学生はもとより、中学生でもきちんと書けない子がいるのだ。


    住所・保護者名がきちんと書けるか否かは、成績とそれなりの相関があると私は感じている。書ける生徒の成績が不振であることは少なく、書けない生徒の成績が良好であることもまずない。書ける・書けないがとびきり良好・とびきり不振につながるとまでは言えないものの、大まかな傾向は見てとれるというのが実感だ。


    小中学生が自分の住所や保護者名を書く機会は少ない。いや、ほとんどないと言ってもいいかもしれない。だから書けないのはある意味当然なのだが、別の見方をすれば、だからこそここには親の教育力が現れるとも言える。書く機会が少ないからこそ、親があえて書けるようにしつける・指導しているかどうかが如実に表れてしまう。


    極端なとらえ方をすればこれらが書けるというのは、親の、子供の勉強に対する関わりのリトマス紙である。学齢前や入学後まだ年数が浅い段階のとき、親が子供に文字を教える。何を題材に?まずは自分の名前だろう。そして親の名前、きょうだいの名前、学校名、住所などなど、身の回りのものを書けるようにする。初めはひらがな、次にカタカナ、そして漢字…。勉強の外注化が当然の現代だが、まず親が教えることの重要性は失われてはいないし、失ってはならないはずだ。現代の親たちはとかく忙しいが、こういう営みは必ずあって欲しい。


    自分の名前、住所、親の名前…これらは社会に対する自身(と家族)の顔である。家族という単位のもつ意味は時代によって変容するが、自身を支える家族の存在の自覚、家族をもとに社会に対するという自覚の萌芽として、名前を書くことが存在すると言えないだろうか。たかが名前だが、子供はそれらを学ぶことから、社会に開かれた自身の存在と社会を内面化していくのではないか。


    言うまでもなく、とりわけ中学生までは勉強と社会性には強い結びつきがある。小中学生で勉強ができる生徒というのは「大人っぽい」子である。精神的に大人びていることは、勉強を強力に下支えする。そして大人びているとは、社会性を内面化している≒自身の存在を客観視できることだ。住所・保護者名を漢字で書ける子に成績良好な子が多いとすれば、それは社会性を備え始めた≒大人っぽさをまとい始めたという意味かもしれない。


    住所・電話番号・保護者名がきちんと書けるというのは、勉強を下支えする社会性と繋がっている。そんなことを考えながら、ただし先入観は戒めながら、体験入塾生の様子を凝視する。


     
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