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気づかせたいこと
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    先週から新年度授業を開始した。入試が終わったばかりだが来年の入試に向けてのスタートはすでに切られている。のんびりしている暇は私にも生徒達にもないというのが実際のところだ。とりわけ新中3はできるだけ早く中3範囲を終了させるためにスタートダッシュを図らねばならない。生徒達は学年末試験が終わったばかりでホッと一息といきたいところだろうが、鬼塾長がそれを許さない(笑)


    中3数学は式の計算から。この単元は展開(分配法則)と乗法公式が中心なので、できる生徒は解説がゼロでもいける。テキストの解説を読ませ、例題を自分で解かせるだけでもスイスイ進む。しかしできない生徒はみっちり解説しても厳しい。間違いやつまずきを想定して念入りに説明しても、いざ自分で問題をやってみると細かいミスを連発し、混乱し、とっちらかる。


    毎年やっていることなのだが、私はこの単元はざっくり解説しただけでガンガン演習を進めさせる。あえてそうすることで可視化させたいこと、自覚させたいことがある。


    間違いのポイント等を想定した解説は入れずに大量の演習に入ると、作業がスムーズに行く生徒といかない生徒の差が出てくる。丁寧な解説をしていないからつまずき要素をもった生徒は徹底的につまずく。でも、それを狙っている。なぜできないか、どこが足りないかを、自身のつまずきを通して強く深く自覚させたい。そうした経験を積ませることで「勉強は自分で進められないとダメなのですよ」という強いメッセージを発したい。


    第1回目の授業。一応分配法則から乗法公式まで一通りは板書解説をしたが、その後はひたすら演習。私は机間巡視をしながら質問を受け、時々横からあれこれ指摘をしていく。


    テキスト数ページ分の演習だが、かかった時間は一番早い生徒が約1時間10分(この生徒は数学だけでなく作業全般がものすごく速い。速さと学力は強く相関しているので当然定期テストは5教科450点をオーバーしている)、一番遅かった生徒は3時間30分。この生徒が塾を出たのは12時過ぎだ。式の計算の導入「ごとき」でこれくらい演習力に差が出る。


    次回の授業の初めで生徒達にはこんな話をした。


    「受験を乗り切るには自分で作業を進めていける演習力を身につけなければならない。ただ、演習といっても前回やってみて分かったように、色々な力が要るでしょ?例題を読んで理解する力、基本的な計算力、暗算の力、集中力、間違いを発見する力…こういう色んな力の総合が演習力。だからこそあれだけ終わる時間に差がついた」。

    「前回ほとんどの人が授業後に居残りをして行ったけど、居残りをいくらしても成績は伸びないよ。居残りというのはノルマが終わらないからしているわけ。ノルマというのは今取り組んでいる学習項目をマスターするための最低ラインだから、それをやっても成績は維持レベル。遅くまで塾に残って俺は・私は頑張ったなと思ったり、家に帰ってお母さんに『頑張ったわね』とか言われた人がいるかもしれないけれど、それは間違い」。

    「厳しいけど、成績を上げるにはノルマ以上の作業をしないとダメ。具体的には宿題を回転させること。できる人が1回転なら自分は何回転やらなきゃならないか考えてみな。回転させてスピードアップが実感できるまでやって初めて成績が伸びてくる」。

    「ウチの塾は『全員の成績が伸びる』ことが目標だから、できない人、苦手な人にはできるまでやってもらう。きついけど入試を乗り切るに必要な勉強だから歯を食いしばってでもやりなさい」。


    27年度入試に向けてのスタートは生徒にとっても私にとっても甘くない形で切ることとなった。気を引き締めてやり遂げたいと思う。



     
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    理念先行
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      しばらく前にツイッターで予備校の先生たちによる「マナビーdis」ツイートがあった。



      マナビー(manavee)というのは大学受験向けの「無料映像授業サービス」だ(ご存じない方はググってみて下さい)。立派なサイトもあってそれなりに世間の耳目を集めてはいるようだが、いかんせんコンテンツ(映像授業)がお話にならない。訓練されていない大学生講師による焦点のぼけた授業で、学習効果ははなはだ疑問だ。



      ここで改めてマナビーの授業を批判しても繰り返しになるので触れない。私が気になるのは、マナビーに対する評価として「授業はダメだが理念はよい」とか「教育で金儲けをしない、純粋なボランティア活動」などの肯定的な見方があることだ。



      マナビーの理念は、煎じ詰めれば「大学受験における地域格差、経済格差の是正を目指した、誰でも無料で利用できる映像授業サービスの提供、そしてそのシステムの循環(マナビーを利用した受験生が大学入学後教える側に回る)」といったことらしい(詳しくはマナビーのサイトにて)。



      私はマナビーの授業だけでなく理念にも全く魅力を感じない。いや正確に言えば、こうした理念先行型の教育に対しては強い違和感を感じる。正直、マナビーは早く潰れないとダメだと思う。運営者や関わっている大学生のためにも、こういう「お遊び」は通用しないということを感じさせた方がいい。



      ネット環境の隆盛によって、「ビジネス」のあり方はあらゆる分野においてドラスティックに変化をもたらした。その1つに若者による起業隆盛があるだろう。様々な起業の形態があるが、私が耳にする範囲ではそうした若者、学生起業というのは多くネット転売、アフィリエイトビジネスなどの「虚業」が多い。こういう「ビジネス」は少なくとも生業と呼ぶことのできない、まさにうたかたのカネ稼ぎと言って差し支えないと思う。



      そうした虚業に限らずとも、若者・学生起業の多くは「理念先行」が多くないだろうか。どこかで仕入れたビジネス用語を駆使しながら「社会貢献」「循環型ビジネス」「WIN-WINのパートナーシップ」などの理念を熱く語る「意識高い系」の若者は、ネット上にはたくさん存在している。



      私は若者のもつ斬新なアイデアや底知れないパワーは十二分に認めるものだが、「実(身につけた実力をもって誠実に事に当たる)・身(中身・身の丈の意識)」が必要な仕事において「理念」を先行させても、それは単なる絵に描いた餅である。厳しいがマナビーはこれにあたると思う。



      教育とは実践の積み重ねだ。理念を欠いたがむしゃらな実践は時に思わぬ落とし穴にはまったり無駄を生んだりすることもあるが、教育における理念は実践の集積からしか生まれてこない。実践なくしてあれこれ理念を弄くってもダメなのだ。



      こうした思考がマナビーの運営者と授業担当の大学生には欠落している。「格差の是正」という理念を先行させ、受験期に受けてきた授業を、自身がそれを経験したというそれだけを根拠に再現できると勘違いしている。



      初めに書いたが、ネット上にはマナビーを「ボランティア的」であるという理由で評価する意見もある。しかし、ボランティアというのは「労働力として人手が必要なところ(被災地など)」に赴いて自らの労働をもって貢献したり、「専門技術を持った人々(医師や教師!)」がその技能を無償で提供する行為だ。専門技術が未熟なものによる「教育ボランティア」は成立しない。



      厳しく断じれば、これは自己実現や自分探しを「崇高な」教育理念でコーティングし、安価な労働力(大学生)を頼りに成立させようとしたものだ。なまじ「格差の是正」とか言うからタチが悪い。おそらく運営者は教育における格差や近代的労働について学んだり考えをめぐらせたりしたこともないのだろう。教育格差について本を読み、ちょっとでも考えてみればこの程度のコンテンツで「是正」なんてことは恥ずかしくて言えない。近代的労働について思考をめぐらせれば、「無料」の無意味さにも気がつくはずだ。




      私は塾や予備校という「既得権」の側にいるからといってマナビーを批判するのではない。「人のため」を謳いながら、それが自己実現の手段であるということの(おそらくは)無自覚と、安易にネットコンテンツを利用するという安っぽさが、末席ながら教育に携わる者として見過ごせない。



      確かに自己実現ではない仕事などないとも言え、その点においては自己実現そのものをそう批判するものでは無い。しかし、自己実現であることを自覚し再帰的に自己に関わるありようと、自己実現に無自覚で理念に陶酔している様とは全く別物だ。



      マナビーは先日朝日新聞でも大々的に取り上げられた。この期にマナビーを知り、利用しはじめる受験生も多いだろう。しかし、運営側が自己実現と理念陶酔に無自覚ならコンテンツの不備はこのままだろう。「アマチュアですから」「無料ですから」の言い訳がまかり通る無責任な「理念」の犠牲者は受験生だ。



      そもそも、人のためを目指すのにどうしてまずネットコンテンツなのか。人の手を借りるのか。「インターネットは全世界に繋がっている」なんて言辞は耳にタコができるほど聞いてきたが、そういうあなたは自分の力で目の前の生徒の成績を上げられるのですか?



      かつてならこういうことは思いつきレベルで終わっていたろう。しかしネット環境の整備によって、新たな「ビジネス」や「社会貢献」が可能になった。私はこうした流れについて、デジタル時代が若者から足元を見る冷静な目を失わせたと感じざるを得ない。



      授業を提供したいのなら、まず自らが教えることのスペシャリストになりなさい。授業をもってして人のためを目指すなら、まず授業で自分の汗を流しなさい。授業をもって稼げる人になりなさい。自身の磨いた技術を無償で提供するというのなら何の文句もありません。私の行く道とは違うけれど、立派な行為だとして尊敬します。そうでないならそれはお遊びだということ。






       

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      言語化と抽象化
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         先週のある日、このブログのアクセスが急増(毎日300〜500くらいしかないのがいきなり10,000アクセス以上)していて驚いた。ログを見てみると、
        このエントリーがはてなブックマークされたことが原因らしい。



         アクセスが伸びたことでいくつかコメントもついた。一切返信はしなかったが、色々思うところもあったのでここで触れてみたい。



         ご覧頂ければお分かりだと思うが、ついているコメントは私のエントリーに対する批判が主である。不勉強を露呈しているものもある中で、なるほどと思わせられるものもあるにはあった。



         私が感じたのは「抽象化」に対する認識の違いである。私は言語化=抽象化としたが、円という図形モデルで表すことも同様に「抽象化」なのだ。具体的な事物ではなく、定義にしたがって円というモデルを使って表すこと自体が抽象化に他ならない。だからそれにしたがって考えれば、私が言語化の一例として上げている「半径」については、半径という線分そのものが抽象化モデルの一部であるののだからそれに名称を与えること(言語化すること)を抽象化というのはおかしい、ということになる。円、半径といったモデルにした時点で抽象化は終わっているのであって、そのモデルに呼び名をつけたとしてもそれは構成要素に名前をつけただけだ、ということだ。



         数学は自然科学の言語、と言ったのはガリレオであったというが、数学という「言語」を用いて事象をモデル化することは間違いなく抽象化であるにちがいない。(もちろん数学だけがモデル化の手法ではないけれど)。



         ただ、抽象化とは概念化のことであり、我々は言語によって事象を概念化していることもまた事実だ。だから言語化を抽象化と結びつけて考えるのは間違いでもなんでもなく、一面の真理を表しているはずである。



         言語論(ひいては人文学的な世界認識において)は、「半径」をただの「構成要素の名称」とは捉えない。「名称」を「事物事象に付けられた名前である」と捉えるのは古い言語認識(「名称目録的言語観」、つまり言語をカタログ的なものであると考える認識法)であって、現在は「言語が世界を構成する」、ひいては「世界が言語である」というところにスタートラインがある。



         もちろん言語がアプリオリな存在であると無批判にとらえることは当然できず、言語以前の共通認識がなければ言語運用はできないという指摘もある。この点について深く考えるのはここでの論旨から外れるのでここまでに留めるが、少なくとも現代の人文学は「言葉にするから世界に(ひいては世界そのものが)立ち現れる」という言語論的転回以降の認識に立っている。




         これを説明する際によく用いられるのが「虹の色」の認識差異。文化が異なれば虹を構成する色数は異なるが、これは言語の違いに拠っていると考える。例えば多くの国や地域では虹は七色ととらえるが、五色や三色の地域もある。これは当然「自然現象としての違い」ではない。世界のどこで見ても、虹という自然現象に大きな違いはない。ではなぜ色数が異なるのか。それを言語における語彙の差によると考えるのがソシュール以降の認識方法だ。世界をどのように認識し、どう「切り取る」かは言語の差異に拠っている、というのがここでの問題意識である(そもそも色というのは明確な線引きがあるわけでなく、グラデーションで変化していくものなのだから、虹にとどまらず色彩語彙における差異性を作り出しているのは紛れもなく言語だ。そしてその区分は極めて恣意的であるというのがソシュールの指摘だった)。



         私が取り上げた「半径」という言葉で言えば、半径という名称を与えて始めて、その線分は「半径」としてその人の前に立ち現れるということになる。「半径」という呼び方を与えなければ、それはただの線だ。いや、「線」も言語である以上、呼称がなければそれは何物でもない。



         ただしかし、私があのエントリーで「思考の言語化」として想定したのは、「勉強が苦手(平均以下)の生徒」であった。ここまで理屈っぽい話ではない(苦笑)



         勉強が苦手な子はおしなべて言葉にするのが不得手である。前のエントリーにも書いたが、「今学校では○○(教科名)は何を勉強してる?」と尋ねても苦手な生徒はまとまった表現で返すことができない。言葉でまとめ上げることが苦手なのだ。勉強内容の1つひとつに関してもまったくそうで、「半径」とか「過去分詞」とか「室町時代」とかの「名称」を学習項目について与えることが非常に難しい。だからこその「言語化」というこだわりであり、それを突破口に成績向上を図っていくというのが私の意図だった。



         最後に1点。言語化とモデル化ともに抽象化における認識行為であろうが、両者には隔たりというか断絶があるのではないかと思っている。これは「リアル文系」と「リアル理系」の違い、思考様式の差異にも関係するのではないか。



         私はド文系だから言語的認識とそれによる思考を重視する。数学の授業予習をしていても、教えるという前提に立てばこそ、それをどう言語化して生徒達に伝えるか(汎用性のあるものにするか)という点に意識が行く。



         しかし、「できる理系」というのは、こういう「言語化」を伴った思考をもって数学に対してはいないだろう。おそらくコメントをくれた人も理系で、そうした立場から私の「言語化=抽象化」に違和を感じたのだと推測する。



         こう考えていてふと思い出したことがある。かつての勤務時代、バイトとして理系東大生を2人使ったことがあるのだが、2人とも「教える」のがものすごく下手だった。説明(言葉!)をもってして上手に生徒を納得させられない。彼ら自身のパーソナリティも当然あろうが、今改めて思うのは、彼らは自分が問題を解いたプロセスとか理由を言語化するのではなく、ひらめきや直観を相当先行させる形で問題に対しているのだろうということだ。言葉による認識をはるか後方に置き去りにしてでも通用するひらめきと直観が彼らにはあるのかもしれない。だから自分が到達した地点を言葉で生徒に説明しようにもうまくできないのだ。もちろん文系だって習熟してくれば言語を介さずとも補助線としての半径が引けるような「プチひらめき」は当然あるが、「リアル理系」にはおそらく、言葉とはまったく隔絶した数式や図形処理のための思考回路があるのだろう。こうした思考様式の違いがあるとすれば、「言語化」というものに違和感を表明するのもむべなるかなというところではある。





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        名は体を現す
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           日本人は古来、言葉そのものに不思議な力を認めてきた。例えば中古〜中世の古典においては「歌徳説話」という括りがある。素晴らしい歌(短歌)を詠うことによって幸福(その形はさまざま)が訪れる、といった物語類型をもつ説話だ。また、言霊(ことだま)という言葉もある。発した言葉が吉凶いずれも招きうるという言葉の絶大な力を、いにしえ人たちは強く信じた。



           ネットの隆盛に伴い、我々が普段目にする言葉の絶対量は増えた。しかしそれと逆相関する形で、1つひとつの言葉は軽やかなものに転じ、重みではなく軽さをまとった言葉で綴られる種々の文章は重厚さや責任の度合いをも薄めることとなった。言葉に魂を込め、大地をも動かす力を認めること、歌が人の人生を変えうること、こうしたいにしえ人の言葉への接し方とは対照的なあり方に現代のネット環境における言葉は位置している。もちろん私もそうした環境の中でこうして文章を綴るものである以上、そうした陥穽に陥っていないとは言えない。



           また、「名は体を表す」という表現がある。人や物の名前はその人物や物体の実質を表す、という意味だ。 名前というものを単なる記号と捉えるのではなく、実体の体現であると捉えるところにこの表現の眼目がある。



           この表現本来の意味するところから押し広げて考えてみれば、言葉とそれによって紡がれる文章は、まさに「名は体を表す」に他ならないということができるだろう。題材、言葉の選び方、文章構成、長さ、段落密度、結語などなど、どれもこれもがその文章を綴った人そのものを表す。文章を読めばどんな人なのか分かるというのは、決して誇張ではない。その人のもつ本質的な人間性は言葉と文章に宿る。



           SNS全盛の今、強靭な精神力を感じさせる言葉、奥深く底知れない知性を感じさせる文章、厚みのある人間性を体現する重厚な言葉群はその数を減らしている。ツイッターやフェイスブックではfavoriteやいいね!狙いの分かりやすく面白おかしい軽やかな表現に溢れている。私もそれらを利用している以上あまり偉そうなことは言えないのかもしれないが。



           不遜の謗りは甘んじて受けるが、塾講師である以上、溢れるばかりの情熱、知識と知性、アイデアを言葉が纏っていなければならないと思う。常套句と日々変わらぬフレーズと、ライトな文章を綴るというのは、その人となりが「同じことを毎日言っている、軽い存在」であることの証である。




           尊敬する猫ギター先生がブログの更新を停止される。先生は更新停止にあたって我々個人塾を営むものに対してボールを投げかけられた。先生には先生の意図がおありなのだろうが、私は猫ギター先生が我々の覚悟を問うているのだと解釈した。言葉を紡ぐものとしての、言葉で何かを伝えようとするものとしての覚悟。お前にそれはあるのか、と「匕首」を突きつけられたと感じた。



           このところ覚悟とか信念という言葉のもつ意味や重みをずっと考えている。覚悟も信念も持っているつもりだったし、その重みも分かっていると思っていた。しかし今、これまでとは違った覚悟と信念を胸にしているという感覚を抱いている。塾の仕事をし始めて19年、これまでに感じたことのない感覚が胸に居座り始めた。重みのある感覚だが、しかしどこか心地よい。



           自らが紡ぐ言葉と綴る文章のもつ責任、自己体現の意識。こうした「覚悟」が塾講師には必要であり、その意識を持って日々生きることが覚悟と信念のある生き方、行き方の一つなのだろうと悟っている。




           
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          「縁」というもの
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             先日義父が亡くなった。1年半あまりの闘病だったが苦しみは最期のわずかな期間だけだった。もう少し長生きして欲しかったという思いは尽きることはないが、これまでの様々な恩に胸に、強く深い感謝をもって送り出した。



             近しい人の死は自身の生と死について考えさせる。40を過ぎて自分が死を看取り送る側になったという事実は、いずれ自分もそうされる側になるという当たり前だが強くは自覚化されなかった生と死の「真理」を心と体に刻み込むと言っていい(こう書いている今も、なんだかお腹が痛い気がする・苦笑)。



             義父の見送りに際してはお経を上げて下さったご住職の法話が強く胸に染みた。



             「死は物理的な意味においては終わりでしかないが、縁(えん・えにし)を結ぶという意味においては終わりではない。葬儀というのは残された者がその縁のありようを再確認し、また新たに切り結んでいく機縁であるべきだ(大意)。」



             決して真新しい言葉ではない。しかし人の死に際しての「縁」という言葉がもつ、まさに言霊の力は強力だった。故人との「縁」はその死をもって断絶したかに見える。しかし個人が取り持った縁、個人の周りに紡がれた縁は決して終わりではない。それを大切にしていくことこそ生きている者の務めではないか。この言葉に参列者は自身の周りに気づかれている様々な縁を再確認し、自分がその連関の中で生きていることを思い知らされる。少なくとも私はそのようなものとして感じ入った。



             そもそも葬儀というのは現代社会に残された数少ない共同体的営みだ。個人主義的に生きる現代人にとって葬儀の時ほど関係性を巻き込んだ営みは少ないだろう。死に際してそうした縁が再確認されるというのは何とも皮肉な話だ。死んだ者はそこで再確認された縁の中で「生きる」ことはもうできない。



             内田樹先生は相互扶助的関係性(縁と言えるものだろう)の中では「迷惑をかける・かけられる」という発想が極めて希薄、ということを指摘されていた。迷惑だから○○するのは止めよう、という発想を我々は頻繁に行う。しかしそれは個人主義的な発想であって、縁の中で互いを巻き込みながらより掛かり合うという共同性は絶無である。しかし人は本来、そうした互助性の中で生きる存在ではないのか。



             どっぷりと個人主義に浸った我々(もちろん私も)が、縁や共同性に基づいた生活をするなど困難極まりない。また懐古主義的に「かつての共同体の復活を」と叫ぶことにも抵抗がある。しかしながら言うまでもなく人は「一人で生まれて一人で死んでいく」ことなどできない。誰かに取り上げられ、かしずかれ、そして誰かに看取られて死んでいく。そうした事実の中に生きているという自覚のもと、何を取り戻していけるのか。重い課題として引き受けたいと思う。



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