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失われたものへの憧憬−『私はこうして執事になった』と『細雪』
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    ちょっと前に、書評だかTwitterだかで知った『私はこうして執事になった』(ロジーナ・ハリソン、白水社)を読んだ。舞台は20世紀初頭から第二次大戦前後まで。その頃のイギリス上流階級の家庭に仕えた執事(butler)や従僕(survant)が、自身の仕事や雇い主との交流をふり返るという回想録だ。執事、従僕という身分が見た「古き良きイギリス」という趣で全編が彩られている。

     

     

    いまだ階級の名残があるとされるイギリスにおいても、莫大な財力と社会的地位をともに備えた貴族は第二次大戦前後に漸減していったという。財政基盤が縮小した貴族は自ずと使用人たち−執事、従僕、メイド、庭番、運転手、家付きコックなどなど−の数を減らし、それに伴って継承されてきた「仕える側」の文化やしきたり、矜恃も失われ、もはや前時代の遺物となってしまった。興味深いのは、かつての雇用者−上流階級と被雇用者−労働者階級という峻別が、却って両者の深い結びつきを可能にし、一方でその区別が緩やかになった昨今は両者の交流も交歓も乏しくなっているという逆説だ。違うからこそお互いを主張し、対立もするが、それが結びつきや尊重に転換することもある。一方で違いが峻別ではなく連続的なものになったことで、互いへの尊重よりも妬みや対立が誘発されやすくなるということか。単純な回顧もののつもりで読んだのだが、なかなか深みのある本だった。

     

     

    私は文学部出身だからか、こうした昔を懐かしむ物語には常にゆかしさを感じる。読み終わって好みの本を読めたという満足感と失われたものへの憧憬が交錯したが、はて、こういう感覚を与える小説が日本にあったよなと考えてみたところすぐに思い出した−谷崎潤一郎の『細雪』−。

     

     

    谷崎の代表作の1つと言えるこの作品は戦前の阪神地方を舞台に旧家の四姉妹が織りなす日常を描いたものだが、物語の芯を貫いているのが結婚の問題だ。作中では三十路を過ぎて婚期を逃した(!)三女雪子の見合いと結婚、また自由奔放な新時代の女性として描かれる四女妙子の恋愛が中心に描かれるが、すでに結婚している長女鶴子、次女幸子(ともに「婿」を迎え、本家と分家として家を構える)の描かれ方にも、当時の結婚という制度の性格が色濃く現れる。

     

     

    細かい部分は措くが、雪子の見合い、妙子の恋愛に際しては「身分」という意識が根底に横たわっている。代々の大店はすでになく現状は没落と言わざるを得ないが、大阪の旧家に生まれ育った姉妹の「家柄」「家格」に対する矜恃、また「使用人筋」「出入り商人筋」の人間たちの、姉妹たちに対するへりくだった−「身分をわきまえた」−態度。映画、ドラマなどで扱われる「身分差」というのはことさら彼我の差を印象づける描き方をされるが、『細雪』で描かれるそれは極めて自然で、まただからこそ消し去りがたいものとして存在する。そして結婚に際してはこうした「身分」は第一優先的案件であり、うまくいったり行かなかったりする原因は、まずそこに求められる。

     

     

    また結婚制度とは家父長制での「家」のあり方を堅持するものであることはいうまでもない。未婚の雪子、妙子の結婚や恋愛は本家の主人である長女鶴子の夫、辰雄が管理するものであり、勝手な行動は許されない。もちろん最終判断も辰雄に委ねられているが、新時代の曙光が見え隠れするこの時代、いつまでもそれに拘泥するやりかたは葛藤やすれ違い、軋轢を生んだりもする。

     

     

    舞台がイギリスであっても日本であっても、「身分」は社会的に否定されるべきものであり、それが生み出すさまざまな制度的差別、区別はもちろん、意識の上のそれも忘れ去られるべきものだ。そのことに全く異論はない。とりわけ門地で差別されるようなありようは断固として否定すべきであり、それは論を俟たない。

     

     

    しかし一方で、失われたものに対する惜別と憧憬は、私の中では消し去りがたくある。−『私はこうして執事になった』に描かれる貴族生活の豪奢な日常とその輝き。そこに仕える者たちの、ささやかな楽しみや労働の喜び。『細雪』に描かれる、新上中流階級の贅沢な消費生活と有閑。家父長制のもたらす窮屈だが強固な結びつき。−陽だけ見て陰を見ないとのそしりもあろうが、陰影ともに色濃いからこそ、ゆかしき文化の輝きがそこにはある。

     

     

    失われたものと手に入れたものはその価値も含めて常に相対的だ。そのことに思いを馳せつつ、個人的には陰影ある時代の文化の残滓を少しばかり肯定的な眼で眺めたいと思う。

     

     

     

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    付記―日航機墜落事故に思うことなど
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      日航機墜落事故は単独事故では過去最悪の520人のが犠牲になった。こうした悲惨な事故の要因はできるだけ明らかにし、今後の事故の被害を最小限にしなければならない。そんな思いが多くの人に共通するがゆえに、事故調査委員会の報告書が出された後もメディアによってボイスレコーダーの解析や救助活動についての検証がなされてきたし、また2011年(なんと事故から26年後)には運輸安全委員会が事故報告書に対して解説を加え、事故要因の理解に努めたりもしている(こちら)。なにより、事故後31年たった今も遺族会である「8.12連絡会」は精力的な活動を続け、事故に関するあらゆることのさらなる解明に努力されている。

       

       

      事故調査委員会の報告書はメディアや一般において「お上の作ったシナリオ」的な扱いをされてきた。航空機事故調査の限界の前には不明としたり推測するしかないことがらもあるが、閉鎖的、権威主義的な当時の役所仕事と相俟って、日航機墜落の「真実」はいまだ解明されていないとされる。

       

       

      さらに、報告書の不備(事故原因究明という性格を優先するあまり、救助活動に関してはほとんど触れられていない、など)やととりつくしまのないありかたが、「事故調は何かを隠している」「あらかじめ作られたシナリオがあった」「巨悪の存在」など、さまざまな憶測を生んできた。例えば報告書でほとんど触れられていない救助活動に関して「なぜ墜落場所がなかなか特定されなかったのか」「なぜ朝まで救助活動が行われなかったのか」「なぜ政府は米軍の支援要請を断ったのか」などの疑義が呈され、場合によっては「急いで救助したくなかった事情が政府にあった」的な陰謀論も存在している。

       

       

      私の印象、感想としては、事故原因については事故調の報告書がおそらく最も真相に近いものなのだと思う。だが当時の役所のもつ閉鎖的で権威的なあり方が様々な誤解を生むとともに、日米の法律の違い(事故原因調査と責任追求がセットの日本と、責任を免責してでも原因究明を優先するアメリカの違い。日本の制度では刑事訴追される可能性が関係者の証言や事故検証を真実から遠ざけているとされる)がより細部にわたる原因の究明、とりわけ遺族の納得いく検証を阻んできたのは事実だろう。また、近年の情報公開により、救助活動が遅れた原因として指揮命令系統の混乱からくる人為的ミスがあったということも明らかになっている(陰謀論的な捜索サボタージュ論はもちろん論外。主に自衛隊関係者による説明、解説で救援活動の沿革は明らかになっている)。こうした点の反省やそれに基づく再検証、調査、制度の整備が求められるのは当然であり、その意味で遺族会や良心的なジャーナリストが口にする「日航機墜落事故まだ終わっていない」は確かである。

       

                  〜〜〜

       

      事故調査報告書には「解明できなかった」の文字がそこここにある。事故機は衝突時に大破したため、残骸から事故原因を推測するには限界があったためだ(海上で飛散してしまったものもある)。また、ボイスレコーダーを文字おこししたものにも「(何と発言しているか)不明」とされている部分がいくつもある。このボイスレコーダーはネットにたくさんアップされており現在誰でも聞くことが可能だが、確かにザーッというノイズが多く録音状態も不鮮明なため、確かに何という発言なのか分かりかねるところも多い。

       

       

      こうした「解明・解読不能」が憶測を招き、さまざまな推測を可能にさせた。「解明」されたくない何かがある、解読すると「真実」が明らかになる、と。だがあえて言えば、事故以降数多く立ち現れた「陰謀論」は、この「解明・解読不能」に論者の思いを代入して生まれたものでしかない。政府憎し、大企業憎しがあればそのような思いを、物語的な余韻を込めたければ余韻を生むようなストーリーを、それぞれが勝手に代入し解釈が積み重ねられてきた。特に「巨悪」「隠された○○」は複雑な現代社会の自身に見えない部分に投影しやすいストーリーであり、一定の耳目を集め続けているが、論拠はない。

       

       

      日航機墜落事故から30年以上が経過した今も、複雑な問題系はいくつも我々の前に立ちはだかっている。「分からない」ことをそのままにする勇気、「分からない」状態から事実だけを頼りに思考する態度、予断を排してものごとに臨む公平性、こうした姿勢をもつ難しさを今改めて感じている。

       

       

       

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      『隠された証言』と『壊れた尾翼』―日航機墜落事故をめぐるそれぞれの立場―
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        私は飛行機が嫌いで、これまで2回しか乗ったことがない。高所恐怖症ぎみというのもあるが、スカイツリーの展望台は別に平気だし、クワガタ採集をしていた頃は4〜5メートルの高所にはしごをかけて登ったりしていたからそれほど大したものではない。ではなぜ飛行機嫌いなのか。ちょっと考えてみると、もしかしたら1985年に起きた日航ジャンボ機墜落事故の印象が強烈すぎたからかもしれない。

         

         

        単独事故では未曾有の大事故であった日航機墜落事故は、私が中学3年の夏に起こった。ニュースでの緊急速報、急峻な山岳地帯での救出模様、原因についての推測など、メディアは連日日航機関連で埋め尽くされ、子供だった私も熱心に見たり読んだりした記憶がある。

         

         

        そんな中、事故が起きて1週間くらいだったか、年上の従兄弟が我が家に遊びに来た。そこで彼が「お前達(私と弟)、これ、知ってるか」出したのが、当時の写真週刊誌。そこには悲惨な墜落現場の写真がセンセーショナルな見出しとともに掲載されていた。

         

         

        人は死ぬと物体になる。それも場合によっては見るに堪えないような姿に「成り果てて」しまう。今ではそんな達観が入り交じった捉え方もできるが、そんな現実をいきなり突きつけられた当時は恐怖ばかりが募ったように思う。あれから30年以上たち、飛行機の墜落事故の可能性については理解しつつも、その怖ろしさはぬぐい去れていない。おそらく私は、「落ちたらどうしよう」という単純な理由で飛行機が嫌いなのだ。

         

         

        前置きが長くなったが、最近ふと思い立って日航機墜落事故関連の書籍をいくつか読み返してみた。日航機墜落に関する書籍には、事故原因について考察したもの(専門的な考察からトンデモまで)から遺体検死の生々しい記録(『墜落遺体』は恐らく日航機墜落に関する書籍で最も有名なものだろう)、遺族のその後を記したルポルタージュなど数多くあり、様々な角度からあの悲惨な事故が振り返られている(小説では山崎豊子『沈まぬ太陽』がその1部で日航機墜落事故を描いている)。それだけあの事故が我々から奪ったもの、また逆に残したものも多かったということだろう。

         

         

        改めて対比させながら読んでみて面白かったのが、藤田日出男『隠された証言-日航123便墜落事故-』(新潮文庫)と加藤寛一郎『壊れた尾翼 日航ジャンボ機墜落の真実 』(講談社α文庫)である。これらはともに、事故の核心である原因について考察したものだ(出版は『壊れた尾翼』が1987年、『隠された証言』が2003年)。『隠された証言』の著者、藤田日出男氏は日航の現役パイロット(当時)で、航空機運航の現場を知り尽くしたプロフェッショナル。一方で『壊れた尾翼』の著者、加藤寛一郎氏は航空力学専門の東大名誉教授。特に航空事故研究を専門にする斯界の権威だ。両書ともに、墜落の主原因である垂直尾翼の破壊メカニズムに焦点をあてている。

         

         

        日航機墜落事故は運輸省(当時)の「航空事故調査委員会」が報告書を作成するという形で総括された(事故報告書はここで読める)。その事故調が作成した日航機墜落までの原因推移はおおむね以下のようになる。

         

        「数年前の着陸時にしりもち事故を起こし、後部圧力隔壁が半壊、修理」


        →「修理ミス(ボーイング社によるもの)があり、隔壁に亀裂が発生」


        →「整備(日航によるもの)では修理ミスと亀裂が発見できず」
        →「金属疲労により亀裂が拡大」


        →「事故当日、機体与圧(機体内部を地上と同じ気圧に保つためにかけた圧)に亀裂の入った隔壁が耐えられず破壊に至る」


        →「機体内部と外部の気圧差により、機体から空気が大量噴出」


        →「噴出した空気により機体後部の尾翼と、昇降・旋回を司る油圧システムが全て破壊される」


        →「操縦不能、墜落」

         

         

        この事故調の報告書は現在でも様々な面から批判にさらされている。極端なものとしては「墜落は自衛隊による撃墜」なんていうものまであるが、そういうトンデモはさておき、事故の主原因である「隔壁破壊→空気の大量流出(それに伴う機体急減圧)→垂直尾翼破壊」という推論を批判する代表的なものが、『隠された証言』における「急減圧はなかった」という主張だろう。

         

         

        『隠された証言』は隔壁破壊による空気噴出が事実ならば急減圧(与圧されている機体内部が高高度の気圧まで一気に減圧され、大量の空気が機体を流れて強風が吹き温度が低下したり、人体には鼓膜の痛み・損傷等が発生したりするとされる)が起こったはずだが、大きく2つの根拠からそれがなかったとする。

         

         

        1つは生存者からの聞き取り。奇跡的に生き残った方の証言からは「大量の空気放出」も「鼓膜の痛み」の徴候は認めらず、急減圧はなかったと考えられる。従って、隔壁破壊はあっても急減圧に至るような大量の空気放出はなく、それが尾翼と油圧システムを破壊したというのはおかしい、とするものだ。ちなみにタイトルにある「隠された証言」というタイトルは、生存者のこの証言が事故調の報告書に反映されず、「隠された」のだとすることに拠っている。

         

         

        もう1つはコックピットのボイスレコーダーの記録で、それによるとパイロット達は尾翼破壊後も酸素マスクをつけた形跡はない。空気流出→急減圧が起こると酸欠状態になり正常な判断ができなくなることから、酸素マスクをつけないことはあり得ない(パイロットは緊急時は直ちに酸素マスクをつけるよう訓練されているという)。つまり、パイロット達が酸素マスクをつけなかったのは、酸欠になっていなかった=急減圧は起こっていなかったことの傍証である、とする。

         

         

        こうした論拠による「急減圧なし」にはかなりの説得力があり、「事故調の調査は不十分」場合によって「事故調は何かを隠している」論の大きなよりどころになっている。さらに『隠された証言』では、事故調が「隔壁破壊→尾翼・油圧システム破壊」を原因とすることは事故要因を修理ミスのあった日航123のみに限定することに他ならず、それはとりもなおさず全世界を飛ぶ他のB747(この当時、全世界で670機が就航していたという)は無関係であるとしたいボーイング社とアメリカ政府の意向に沿ったストーリーである、とも断じる。

         

         

        一方で『壊れた尾翼』は事故調査委員会の報告書に沿う内容で推論を重ねており、『隠された証言』とは立場が180度近く異なる。『隠された証言』は生存者の証言とボイスレコーダーの記録により急減圧を否定したが、こちらではまず、フライトレコーダーに記録された「機体前向き11トンの加速度」が隔壁破壊による空気の流出と仮定して運動理論による計算を行い、破壊したとされる隔壁断面から尾翼を破壊するほどの空気が流出した場合には確かにそのような加速度がかかると指摘する。また、「B747のような胴体容積の大きな物体の減圧は、減圧実験や戦闘機における減圧事例とは異なる」として方程式をもとにその減圧速度も推測する。その結果減圧は緩やかに起こったと結論し、そのような場合は空気の急激な流出も温度低下も起こらず、生存者の証言とも矛盾しないとする。また、日航機墜落の数年後に起こった別の航空機事故の事例からも、高高度における急減圧は直ちに「映画で描かれるような」空気の大量流出や鼓膜の痛みを惹起するものではなく、当該機の胴体容積や開いた穴の大きさ、場所によって異なることを指摘する(ちなみに日航123便の場合、圧力隔壁の破壊された部分は客室ではなく客室天井部に接しており、空気の大きな流れは天井を通ったと考えられるという)。

         

         

        ボイスレコーダーの記録に関しても、『隠された証言』とは立場が大きく異なっている。『隠された証言』はパイロット達が酸素マスクをつけていないことから急減圧を否定するが、『壊れた尾翼』は乗員の会話が極端に少なくなったり応対がちぐはぐになっていることを「低酸素症の影響=急減圧の発生」とする事故調の推論を支持する。さらに、「なぜ酸素マスクをつけなかった」のかについて、事故要因探求ではタブー視されて(著者は日本では死者に鞭打つ行為は忌避されるから)触れられていない「乗務員の力量」にも踏み込んで事故のあり方の可能性をも示唆している。つまり、『隠された証言』では「(急減圧はなかったので)酸素マスクをつけなかった(能動的選択)」だが、『壊れた尾翼』は「(急減圧はあったが、異常事態に気をとられ)酸素マスクをつける余裕がなかった・つけ忘れた」という可能性をも示唆している(実際の記述はもう少し深く踏み込んだものになっている)。

         

         

        両者ともに説得力のある推論を積み上げており、読み応えがある。どちらが主張が正しいのか、私には分からない。ただ、正反対とも言える意見の積み上げを比較すると、それぞれの置かれた立場、拠って立つ土台・土俵の違いが鮮明になってくる。

         

         

        『隠された証言』は仲間である乗務員の立場を最大限尊重する姿勢に貫かれている。全編を通じ、パイロット達は最大限の努力をしたという立場で推論を重ねている。一方で『壊れた尾翼』は推論妥当性とそれを補強する科学的手法が最優先だ。だから場合によってはパイロット達の力量不足をも示唆しながら、機械としての航空機とそれを支える科学に対する信頼を貫徹する。それぞれ場合によってはセクショナリズムと隣り合わせの微妙な立ち位置だと思うが、信じるものを守り、信じるものに準拠しようと思考と行動を重ねるさまが、読むものを衝き動かす。ともに事故を知る上で、まぎれもない必読の書であると思う。

         

         

         

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        『逝きし世の面影』〜『東京の下層社会』
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           『逝きし世の面影』(渡辺京二 平凡社ライブラリー)
           『東京の下層社会』(紀田順一郎 ちくま学芸文庫)


           『逝きし世の面影』は、江戸末の開国以降、日本の歩んだ近代化によって失われた「日本的なもの」
          を称揚し、それに思いをはせる情緒あふれた書である。資料として我々日本人自身が残したものでは
          なく、幕末以降日本にやってきた外国人が書き残したものを中心に採録していることがこの本の独特
          の雰囲気を作り上げている。


           外国人から見た近世末の日本が、なんと「魅力的な」土地であったか。その手放しをも言える賞賛
          を読むと驚きを禁じ得ない。西欧人のオリエンタルなものに対する未体験がそうした褒め言葉につな
          がっているとも言えなくはないが、そうした疑念に対して筆者は、決して単なる未知への驚きと賞賛で
          はないと丁寧に解説を入れていく。


           貿易の荒波にもまれることなく、自給自足でことたりる生活を演出してきた日本近世。そこで我々の
          祖先が営んできた、物質的に豊かではなくても精神的に充足していた日々。「貧しく、日々の生活の
          糧にも事欠いた、弱者が虐げられた時代」として(表面的に)近世を学んできた者にとってはにわかに
          信じがたい世界がそこには描かれている。しかしながら、「ノスタルジー」の一言で片づけられない、
          「逝きし世」に対する強い思いがかき立てられるのも確かだ。


           日本における近代化が、そうした「日本的美・美徳」を失わせたということは、『東京の下層社会』を
          読むといっそ強く印象づけられる。明治〜昭和にかけての「東京のスラム街」の実相を、当時編まれ
          た書を紹介する形で描き出していく。


           行間から臭気が漂ってくるような劣悪な生活環境。殖産興業の名の下に動員された女工達の過酷
          な労働。生活苦と倫理観の欠如によって遊郭に売られる女性達の悲哀…。『逝きし世の面影』で描か
          れた「美しい日本」が、近代化によってそのようにまで変化してしまったのかと思うと落差に愕然とす
          る。


           もちろん近世末にも目を覆うような劣悪な環境で日々過ごさなければならなかった人々がいたこと
          は確かだ。江戸まではよくて明治以降日本は変わってしまったという単純な捉え方は安直でしかな
          い。近世の実相も豊穣から劣悪まで多様であったろうし、近代化以降も同様だったであろうことは言
          を俟たない。


           しかし、(表面的には)外国の脅威にさらされず、貿易による生活物価の高騰を経験することもな
          い、いわば「安定して貧しい」生活を送っていた江戸の人々は、やはり近代化以降の「豊かさ」とは位
          相の違う「満ち足り方」をしていたのかと思いをはせずにはいられない。こういう捉え方もまた、閉塞感
          に覆われた現代に生きる私の「弱さ」なのだろうか。


            もう取り戻せない「逝きし世」だからこそ惹かれるのだろう。現在の我々の立ち位置を顧みるため
          にも、読む価値がある本だと思う。


           個人的には「ものすごくエモーショナルな気持ち」になりました。


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          『自然をつかむ7話』
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             『自然をつかむ7話』(木村龍治、岩波ジュニア新書)


             一昨日のエントリで「理科実験より何倍も勉強になる本を紹介する」なんて大風呂敷を広げたが、
            掛け値なしにすばらしい本だと思う。中学生なら十分読めるし、小学生なら学校や塾の先生、保護者
            が一緒に読んであげればいい。理科実験をいくつやっても到達できない世界がそこにある。


             著者は自然科学の観点からちょっとしたことをきっかけとして話を進めていく。時に河原の1つの石
            が宇宙の誕生の話にまで及んでいき、まさに縦横無尽に想像力が飛躍する。この本には自然科学
            (理科)の醍醐味が凝縮されている。


             この本に収められている7つの話のうち、私が好きなのは「アドリア海に落ちた涙」。遠く離れた恋人
            がアドリア海(イタリアの東)に落とした1粒の涙が、どのくらいたったら東京湾までやってくるのか、と
            いうなんともロマンティックなお話だ。昔流行った『空想科学読本』のように空想科学を実際の科学に
            照らしてその荒唐無稽を笑うというのではなく、あくまでロマンを大切に、科学的知見をもって涙が旅
            をする可能性を考えていく。結語も著者の学問的姿勢がギュッと詰まったすてきな言葉だ。


             言い忘れたがこの本は我々のような大人にこそお勧めだと思う。特に理科学習に恨みがある人は
            ぜひ(笑)
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