無料ブログ作成サービス JUGEM
現代文指導に込めた思い
0
     西東京の進学塾キャラベルにお邪魔し授業をさせていただいた話はしばらく前に書いた。その際の私の授業に関して、塾長の石崎先生がブログでこんなふうに評して下さっている。


    (以下石崎先生のブログリンク)

    ○ 細川先生来訪(序)
    ○ 細川先生来訪(1)〜やっちまった〜
    ○ 細川先生来訪(2)〜揺るがぬ柱〜
    ○ 細川先生来訪(3)〜当たり前のレベルの高さ〜



     独立前から多大な影響を受けてきた、個人塾塾長としてまた東京の塾人として大きな目標である石崎先生にこんなふうに評価していただき、率直に嬉しい。また自分がこれまでやってきたことは自己満足ではなかったのだと確認でき正直ホッとした(それにしても石崎先生の文章力は圧倒的だ。サブタイトルは私の訪問記と呼応する形で同じものをつけられているが、読み比べるとちょっと恥ずかしいくらいである)。



     私は独立までの17年間、謂わば相当に閉じた環境で塾講師生活を送ってきた。誰かに授業を評価されたこと、授業に対する指導を受けたことは皆無といっていい。じゃあずっと自分で工夫と研鑽を行ってきたのかというとそうでもなく、自分で言うのも何だが初めから上手くできたという塾講師としての才能だけでやってきたというのが本当のところだと思う。特に20代は初めの数年間、英語を教えるためにそれなりの努力はしたが、あとは自己研鑽としてはほとんど何もやってこなかった。変わったのは30を超えて塾講師として生きていくと決めてからだ。



     受験という受験にほとんど真面目取り組まなかった私だが、国語だけはなぜか昔からできた。だからというわけではないが大学も文学部を選択し、教職もとって国語の教員免許も取得した(今振り返ってみるとすごい単純・笑)。塾講師を始めてからは数学以外のすべてを担当するようになったが、大学受験の現代文については「これが自分のメイン教科」という自覚で取り組んできた(生徒保護者には「英語の先生」で通っていたが)。



     塾講師になって現代文を教えるにあたりまず困ったのが「どう教えたらいいか分からない」ということ。私自身の国語が「なんとなく読んでなんとなく解いて、なぜかできている」といういい加減なものだったので、解き方の方法論みたいなものを持ち合わせていなかったのだ。というわけで塾講を始めてから色々な予備校の現代文の先生が書かれている参考書、問題集を読んで「解法」を研究し、それをアレンジしつつ授業を行っていた。



     このやり方で結果は出ていたのだが、そのうちちょっと違うぞと思い始めた。いわゆる「解法」はあくまで設問を解くための手段に過ぎない。これは本当に「分かった・読めた」状態とはほど遠いのではないか。抜き出しや記号問題はできるけれど本格的な記述はからっきしダメとか、細部の表現の意味や全体像を尋ねても答えられないという生徒を見ていてそう思い始めた。



     私自身が「なんとなく読み」だったこともこうした問題意識につながっていたと思う。授業の予習をする。なんとなく読みでは教えられないからちゃんと読む。つまり精読する。そうすると色々なものが見えてくる。私自身の無理解や不十分さも自覚されたが、翻ってみて特に感じたのが、巷の問題集・参考書が解法に傾きすぎており、本文内容の解説に乏しいということだった。解説を読んでも本文内容の理解が進むという問題集はほとんどないに等しい。本当にこれで良いのか?特に実力とやる気のある生徒の質問というのは「どう解くか」よりも「どう読むか」にこだわったものが多く、そうした生徒の疑問点に応える教授法の必要性も痛切に感じられた。私が受験期に解法・方法論にどっぷりと漬かった授業を受けていたらこうは思わなかったのかもしれない。受験期にちゃんと勉強しなくてよかった(笑)



     その後の試行錯誤でたどり着いたのが「超精読での本文完全理解・その手段としての要旨作成」という極めてオーソドックスなやり方だった。瞬時に解答を導く華麗さも明快さもない。いわば四股をふみすり足を徹底していくような地道な訓練。しかし、それをやりきった者には文章のパターンや癖、長さに左右されない実力が約束される。横綱貴乃花の美しい四股と戦績が強く相関していたように、地道な訓練と入試得点は分かちがたく結びついている。その信念のもと現代文指導を行うようになった。



     ただしこのやり方、とにかく解説に時間がかかる。難解な文章なら尚更だ。予備校の限られた講義時間では時に全文を解説することを諦めることもあるが、私は基本的に1文たりともとばさず解説する。コンテクストは文章全体からなっているのだから当然だ。そしていつも「解くために読むのではない。読んだ結果として正解がついてくる」の姿勢で解説する。



     気をつけなければならないのは全文解説をすると全体像がぼやけるということ。細部ばかりに目がいって全体で筆者が何を言いたいのかという主張が見えづらくなる。だから解説前に「今日の学習眼目」という形で学習目標を提示(特に大学入試現代文において私は文章のテーマ性を重視している)したり、主題を確認したりする。進学塾キャラベルでの授業でも、まず「題名」というかたちで主題を掲げたのはそのためだ。



     石崎先生による授業評で図らずも自覚されたことがある。それは私の講義スタイルが「できる生徒向け」ということだ。これは自身で薄々感じていたことであるが、実力のある先生がご覧になってそう思われるのだから間違いないところだ。解説をはしょらないですべての文を説明するというのは一見現代文が苦手な生徒のための授業のように見える。私自身、始めた当初はその意図もあった。しかし逆説的だが、全文解説による精読は苦手な生徒には向かない。できる生徒をもっと伸ばすためのやり方だと言える。



     現代文が苦手な生徒というのは大抵仝贏辰少ない、読解体力がない、細部から全体像を作れない という短所を抱えている。どれも一朝一夕にはならない困難な課題だ。だから苦手な生徒には(指導における堕落だとは思うが)「解法」を教えてとりあえず解けるようにしたほうがいいという見方ができる。精読には上記 銑のすべてが必要であって、いくらかみ砕いて解説をしても理解できないという生徒はいるのだ。精読における生命線は「的確な言い換え」「具体例の与え方」であり、私はこれにはかなり自信をもっているが、10人の生徒がいたら10人を同じ言い換えと具体例で納得させることはできない。母語である日本語はルールを学んでマスターしたものでない以上、それぞれの生徒がもつ言語体験が千差万別だからだ。ベースとなる共通認識が異なるわけだから誰もが腑に落ちる解説というのはありえない(もちろん最大公約数を大きくする努力と工夫はあってしかるべきだが)。最大公約数をもって全文を理解させようというもくろみは、最大公約数からあぶれた少数の生徒を置き去りにしてしまうことがある。これが精読スタイルが「できる生徒向け」と考える理由である。



     しかし、である。石崎先生もおっしゃって下さっているが、苦手な生徒こそ私の授業を受けてもらいたい。確かに精読はきつい。解説するのも大変だが、それを自分で行っていくのは苦手な生徒にとって苦行とも言えるだろう。しかし、現代文ができる端緒はここにしかないと思う。いや、1つの文が理解できてそれがきっかけで全体理解につながっていくということはままあるものだ。一点突破全面展開の発想で、今目の前にある一文の理解に精力を傾ける。これを出発点にすることが現代文学習の本義につながっていくと信じる。



     大学入試また高校入試の現場において、いかにも塾的(予備校的)なテクニカルな指導はなりを潜め始めている。受験人口の増加に伴って登場した「解法スキル」や学校授業の欠点を補うような形で塾が存在感を示した「効率的指導・学習」は「時代のあだ花」的に消え去る運命にあるのだろう。これから残っていくのは、当たり前のことを当たり前に提示し教えることのできる塾や講師だ。それこそが勉強の王道であろうと思う。確かに王道的学習はつらく困難だ。決して一朝一夕にはならない。しかし、それをこそ求める生徒に育てることが我々の課題でもあると思う。




    | gen | 国語 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
    読む力の養成
    0


       今日から地元区立中学は定期テストが始まる。なんと期末テストである。毎年言っているがこの時期の定期テストは生徒にとってはほとんど利がない。早く三学期制に戻して欲しい(また文句ばかりになるのでここまで)。



       ウチの塾は定期テストに関しては「緩やかな管理」でやっている。ガチガチに管理したら生徒達の工夫や自律学習の芽を摘むことになるが、かといって通常授業をストップしただけで詳細は生徒任せでは何をやったらいいか分からない生徒もいる。学習予定の立て方だとか試験勉強を進める手順、また勉強中の取り組みに対する細かい修正などは必須だと思う。今回もいつも通り予定表を作成させつつ、試験勉強に細かなダメ出しを入れつつここまでやってきた。明日から試験だというのに私にギャーギャー言われた生徒もいて指導の不徹底を痛感するが、最後までこだわって勉強する姿勢を忘れないで欲しい。




       試験勉強のやり方については各教科ごとにやり方を示したプリントを配布してある。特別なものは1つもなくもっともオーソドックスだと考えられるやり方を提示しているだけだが、これが中々実行できない。




       私がオーソドックスだと考えるやり方は、まずは教科書の精読である(当たり前)。どの教科でも教科書を読めないことには話にならない。例えば社会だったら分からない言葉や表現がそれこそ一言一句のレベルまで完璧にできてこその問題演習である。英語も言わずもがな。教科書の本文を完璧に訳せる、単語は意味も発音もオーケー、発音練習も繰り返しやった。こういう段階から始めないと問題演習は実を結ばない。どの教科も若干の方法論は違え、教科書から出発しなければならないことは言を俟たないと思う。




       ところが、教科書を読むように指示をして、きちんと読み切れる生徒というのは案外少ないものだ。集中が続かないのか早く問題演習に入りたいという焦りがあるのか、とにかく「読む」行為は省略したがる。今回のテスト勉強でも、新入室生を中心として「教科書読んだの?」「もう一度教科書読みなさい!」なんていう(きつめの)指示が繰り返し飛んだ。




       なぜ読めないのか。問題を解かないと試験勉強をしている気がしないという焦りもあるだろう。ただ、一番強く感じるのは、「教科書を読めといわれてもどんなふうに読んだらいいのか分からない」というケース。精読の経験値が圧倒的に低いから、いざ自主学習時に精読せよと言われても、何をどうやったらいいのか分からないのだ。このことを保護者の方に説明すると「読むだけなのにできないなんて」と絶句されたりするが、読むだけって案外難しいのだ。集中力は大前提として必要だし、語彙力や具体―抽象の置き換え能力がないと意味がつかめない。きちんとした訓練をしないと読めるようにはならない。




       要因を学校や家庭に求めても仕方がない(もちろん、そのどちらかもしくは両方が大きな原因となっていることは確かだが)。そうなってしまったものはそういう前提で指導を構築していかなければならない。





       その意味で、国語授業の必要性を今改めて感じている。私の立場で言えば、予備校でやっているのとは違う、精読の実践。これを集団授業ならではのものとして実現しなければならないと思う。




       「灘中 奇跡の国語教室 - 橋本武の超スロー・リーディング 」(黒岩祐治 中公新書ラクレ)という本がある。私立中高一貫校の雄、灘中学高校の名物教師、橋本武先生による独自の国語教育の実践を、教え子である黒岩祐治氏(元ニュースキャスター、現神奈川県知事)が記したものだ。




       橋本先生は中勘助『銀の匙』を題材に徹底した精読(スローリーディング)を行うという。その精読度合は考え得る最高レベルのもので、読んだときは灘中のすごさの源泉を垣間見た気がした。同時に、「これ、塾でもやりたいけど無理だよな〜」と思ったものだ。




       一つのヒントとしてこうしたスローリーディングがある。塾で何が実現できるのか、もうすこし考えを深めたい。




       私がぺーぺーだった頃、勤務していた塾では社理国の指導はしていたが、位置づけはいわばおまけ的だった。大した授業をせずともテストと宿題をきちんと課していれば、直前の入試問題演習で相当程度仕上がったからだ。英数をきちんと指導していれば学校の成績がオール3プラスアルファくらいでも5科偏差値60弱くらいはとってきたし、実際そのレベルの高校に合格していた。




       状況は一変している。自身の見てきた生徒だけで安易な一般化はできないが、そういう片手間的な指導で実力がつくほど、今の中学生指導は甘くない。「悪いのは生徒や制度」などと言ってしまってはとり残されるだけだ。冷静に生徒達の実力・特性を見極め、何をすべきか考えねばならない。 



      | gen | 国語 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
      部分と全体への視点
      0

         週に1回だけ予備校で現代文・小論文を教えているが、難しいのが質問の扱いである。


         現代文は尋ねられて即答できる質問はほとんどない。講義で扱った教材ならその場で答えられるが、模試や過去問演習の質問だと文章を読むところから始めなければならない。また出講日は空き時間なく講義が詰まっているので、中々満足に時間を取ることができない。


         そんなわけで秋からは、「講義内容以外の質問は、 質問メモに教材コピーを添え、事務に頼んで私にメールしてもらう。それに対して私が回答を作成して返信する」という形にした。「『大問○、問△の答えがイになっているが、解説を読んでも納得できません。私はエだと思います』みたいな質問でOK。気軽にどんどん送ってこい!」と呼びかけた。


         この類の質問は来るときは集中して届く。昨日は一気に3人・4題分メールが来てちょっと泣きが入った。私は1人の質問につき最低でもA4版1枚分は解説を作るので中々しんどい(涙目)意地と根性で昨日のうちに返信したが(汗)


         こうした質問で案外多いのが「部分ばかり見ていて文脈や要旨が意識できていない」というもの。「直後に〜と書いてあったのでイにしたのですが、正解にはウとなっていて…どうしてでしょう」とか。


         こういう質問の多くは大抵的外れで、「ヲイヲイ、前後2段落の文脈取れば一発じゃねえか…」的な思いを抱くこともしばしば。「授業でず〜っと強調してきたろっ!『○行目に書いてあるから、エ』みたいなどっかの問題集みたいなやり方すんなって!」とも言いたくなるが、それは言わない(質問は大抵女子からだから。女の子に優しいのは当然である)。


         現代文で必要な読み方は「部分と全体への視点をともにもつこと」である。そんなのあたりまえじゃん、と思われるかもしれないが案外現場では「わかりやすさ・明快さ」のためにそうした正論・王道が脇に置かれていると感じる。


         特に市販の問題集(と赤本解説)の一部には現代文という科目のハードルを低く見せたいのか「極端に単純化した根拠」をもとに正解を導くものがあるが、これは害が大きい。苦手な生徒、できない生徒ほど、王道のやり方を地道に重ねる必要がある。


         単語一語、助詞一文字の意味にもこだわる。意味段落を形成する文脈と全体要旨を意識する。「現代文ができる」とはこの両立を図れることである。両者を往還する思考作業が、意識せずともできることである。


         質問回答を作っていいて思ったのが「部分と全体への視点をともにもつ」っていうのは何も現代文だけじゃなくて、実生活でも必要な態度だよなあということ。人間案外目先のことにこだわって、ものごとを大きく見れないことってよくありますよね。これも言うは易く行うは難しの典型。いろんな局面で来年はしっかり気をつけていきたい(年末のエントリとしてうまくまとまったかな)。




        | gen | 国語 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
        国語の読解
        0
           私の専門(一応教員免許を持っている教科、という意味)は国語なのだ
          が、小中学生に「国語の読解」を教えることは以前はそれほど力を入れて
          いなかった。


           入試における「国語」 の勉強は、他の教科に比べて「ブラックボックス」の
          度合いが高い。とりわけ読解においては暗記の要素がほとんどない分、そ
          れまで生きてきた言語体験の質や多寡が問われる。だから努力に比して即
          結果が出る生徒と、一向に伸びない生徒とがいる。


           やっても中々伸びないのなら、国語の読解に時間を割くより他教科を伸ば
          した方が入試得点の上積みからみれば効率的だ。また、国語以外の教科
          の勉強をもってして、読解力が伸びてくるということもままある。もちろん入
          試問題演習を含め過不足なくやってはいたのだが、あくまで他の科目との
          相対的比重という意味で、私的には国語は一段低かった。


           こんな考えでいたのだが、今年は秋からの演習・解説にも多く時間を割い
          ている。指導の基本は「ラインの引き方」をみっちり指導し、それにのっとっ
          て読解を進めるやり方を徹底するというスタイル。


           大学入試現代文では定番?とも言えるライン引き。実線、波線、二重線、
          マル、四角、三角、矢印等々を駆使して文章を整理していく。


           実はこのライン引き、あまり好きではなかった。読解を教師の型にはめす
          ぎるような気がしていたから。ラインを引くこと自体は指示するが、引き方は
          自分で工夫するよう言うだけだった。


           それを今年はみっちり指導している。方向転換の理由は色々あるのだ
          が、国語の伸びをとことん追求してみようという思いが強い。ブラックボック
          ス云々を言うのではなく、徹底的にやって自分と生徒達を追い込んでみよう
          と。


           また、都立高校の国語の問題、とりわけ評論は以前に比べて難しくなって
          いている。自校作成問題は言うまでもなくハイレベルだ。そうした問題に対
          処していくためにも、大学入試でつかう方法を教える必要性を感じている。


           独立初年度は塾講師としての新たな1年でもある。我々の仕事は毎年同
          じサイクルでの繰り返しなので、指導が結構マンネリ化することが多い。虚
          心坦懐にゼロから作り上げるものはしっかり見直していきたいと思ってい
          る。


          | gen | 国語 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
          現代文のコツ 2
          0
             ひたすら書く作業をやっても現代文がなかなかできるようにならない生徒がいる。


             こうした生徒は語彙力が少なかったり言語によって概念を操作する経験の絶対値が少なかったり
            する。端的に言えば、大学受験までの言語生活が貧弱だったということ。


             ここで手元にある本を適当に開いて飛び込んできた一節を引用する。例えば次のような文を
            一読して理解できるかどうかは重要である。


             『〜非日常は「日常」からの脱出をイメージさせる、「祝祭(まつり」や「旅」、「遊び(消費)」の世界
            のことである。そこでは、「日常的」な秩序や約束ごとがひっくり返され、人びとは「日常的」な束縛
            からの開放感を味わう。』(「現代文と格闘する」河合出版) 


             言語による概念操作の単純な例である。分かる人にとってはどうってことのない記述であるが、
            現代文(評論)が苦手な生徒にとっては理解するのに努力、場合によっては苦痛を伴う。


             処方箋はただ1つ、言語体験を豊かにすることしかない。本(小説ではダメ)を読む、真面目な会話
            の機会を多くするなどがそれにあたるが、入試現代文に数多くあたることももちろん有効な「言語
            体験」である。豊富なインプットによって自分の内側にある「器」を大きくしていくことによって
            現代文の得点力というアウトプットも向上していく。


             現代文(評論)ができない生徒というのは他の文系科目、英語や歴史もまずふるわない。英語や
            歴史は現代文に比べて努力に比して得点が伸びることが実感しやすいので「現代文(場合によっ
            ては国語)を捨てて(努力は最小限にして)、英語と歴史に力を傾注するということも結構ある。



             ただ、現代文に対する努力もきちんと続けていると英語や歴史が驚くほど伸びるということがある。
            こうした相互作用はいつでも期待できるわけではないので見極めは難しいが、受験勉強の醍醐味
            の1つであるかと思う(もちろん、英語で身につけた力で現代文ができるようになるなんてことも
            ままある)。


             受験勉強は期日の決まった、ある意味時間との勝負。インプットによって言語体験を豊かにする
            なんて悠長なことはやってられないことも多い。でも君は早稲田や立教に合格したいんでしょ?
            じゃあやらなきゃ!!
            | gen | 国語 | comments(0) | trackbacks(0) | - |