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ほとばしる情熱 〜三上慎司先生来訪記 その3〜
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    三上先生の授業は言ってみれば極めてオーソドックス。授業技術を十二分に駆使し、生徒達に深い納得を与えることで定着を図るという、何のギミックもないものだった。ハッと驚かせる何かを授業で与えるより、静かに、しかし確実に理解を与える方が私は難しいと思う。三上先生は塾講師に力を入れすぎて本業がおろそかになった時期があると耳にしたが、その塾講師としての日々は、きっと優れた先達に導かれつつ、本道の塾講師修行を積んだ日々だったのだろう。先生もブログで書かれているが、初めて対する生徒達とあって学力差をちょっと測りかね、発問と応答が滞ってしまったり、授業スピードが若干遅くなったという点はあったが、生徒達が十分理解を深めることのできた授業だった(授業後の「反省会」ではもう1点、ホワイトボード見る時間が長いという点を指摘させてもらったが← えらそう)。


    私の当初のもくろみだった「理系の先生による数学授業の秘訣」の見極めだが、良い意味で肩すかしをくらったと言える。僭越だが、三上先生の授業の進め方と私の授業の進め方は、大枠で同じ方向を向いていた。私が数学の授業(入試問題解説)で重視しているのは「解答の指針」と「解答に至るまでのプロセスイメージ」だ。問題文を丁寧に読み、どのような方向性で問題に当たっていくのかをまず考える。そして、解きながら、解答に至るまでのプロセスを常にイメージしながら作業に当たっていく。もちろんそこには試行錯誤という要素が常に介在するが、スタートからやみくもに走り始めるのではなく自己との対話という空間を設置しながら問題に対していく。もちろん三上先生の授業はウチの中3生用にチューニングされたもの(標準レベル)であろうし、ハイパーレベルの受験生用の授業はまた異なるのであろうが、先生の授業を通して私の授業の方向性は間違ったものではないということに胸をなで下ろした。


    ここまで私は三上先生の授業技術についてあれこれ論評してきた。私の駄文でも十分お分かり頂けると思うが、それは学生講師のレベルをはるかに超越している。しかし三上先生はまだ学生。冒頭で書いたように、普通なら己の働く環境(現在は塾講師をされていないとのことだが)でそれを発揮し、磨けば十分と考えるのが普通だ。それを東京まで、自腹でやってくるというこの情熱。こういう情熱をもっている学生講師が、はたしてどれほどいるか。塾はブラック企業だ、報酬外の労働が常態化しているなどの暗い話が多いこの業界にあって、純粋な動機をもって講師業を極めようと思う若者の存在に、誰もが突き動かされるのではないだろうか。


    また、塾講師にとって重要なものに「印象」がある。授業がうまくても、情熱があっても、考え方が硬直していたり鼻持ちならない上から目線だったりすれば、その講師が与える印象は格段に低いものとなり、生徒の成績にも資するところは少ないと私は思っている。印象というのは内面からにじみ出てくるものであり、それはその人となりに拠るものであることは間違いない。「人間性」という使い古され手垢にまみれたものが、子供と対する我々塾講師にとっての芯にあることは、十二分に理解しておかなければならないと思う。


    三上先生は、対する人に好印象を与えるパーソナリティをも兼ね備えている。人なつっこく、柔らかで温かい雰囲気が自然と滲み出ている。出会った初めから、どこか私の教え子であったような錯覚に陥った。もともとおしゃべりな私だが、ベラベラと自身のことを話してしまうほど、三上先生には警戒心や緊張を解かせる空気感がある。有り体に言えば、「かわいげ(@もりもと先生)」に満ちているのだ。三上先生が近くに住んでいれば、私はきっと毎週末飲みに連れ回すだろう(笑)この日も授業終了後、焼き鳥〜bar〜ディープ下町探索と、さんざん連れ回してしまった。


    我々塾講師は孤独だ。生徒と対峙する時は1人。だれも手助けしてくれない。しかしその孤独は、孤立無援を意味しない。同じ方向を向いて歩く、見えない紐帯で結ばれた仲間が、そこかしこにいるという確信と実感が、今日も己を奮い立たせる。少なくとも私はそうだ。つるむのは好きではないが寂しがり屋という自分勝手な性格なので、いつも孤独を感じている。しかし直接声をかけられなくとも、奮闘している塾講師の存在が、弱い自分を勇気づけてくれる。


    学生の身でありながら、塾の見学のためだけに新幹線に乗ってはるばる東京までやってくる。こういう講師がいるということに、私は強く勇気づけられ、鼓舞された。私の所に来てくれたという事実だけではなく、そういう情熱が存在するということに。三上先生、本当にありがとうございました(終わり)。



     
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    ほとばしる情熱 〜三上慎司先生来訪記 その2
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      (承前)三上先生が受験に向けた指導をご覧になりたいと言われたのでその日は中3の授業を行うこととし、先生の特別授業では数学をお願いした。教材は中3範囲は一応終了していることを伝えただけでお任せしたのだが、先生が選ばれたのは都立共通問題。平成25年の大問4だった。先生には事前にウチの生徒の大まかな成績と雰囲気は伝えてあったのだが、さすがのチョイスにまず唸った。


      教材選定には「何を教えたいか」という教師の意図がはっきり現れる。この問題は取り立てて難しいものではないが、テキストという単元別学習から入試問題という総合的学習への橋渡しとして非常に好適な内容を含んでいる。中3範囲は終わったばかり、それほど数学が得意な生徒はいない、というウチの生徒のレベルをしっかり考えた、いわば「思いやりのある」選択だ。そこには難問や鮮やかな解法をもって生徒を唸らせたり、自身の得意分野に生徒を引き込んで力を見せようというてらいはみじんもない。


      一方で先生が選んだのは我が都立の入試問題。他塾でのいわば「他流試合」で、自身のやりなれた得意技ではなく相手の流儀にのっとるというわけだ。そこにはもちろん他塾訪問に対する礼儀もあるだろうが、そちらの土俵で自分の力を見せる、見せたいという野心もあるに違いない。この問題選定から、三上先生の誠実さと、内に秘めたやってやろうという情熱をともに感じずにはいられなかった。


      授業は問題演習→解説という流れで始まった。先生は問題演習は厳しめの時間を設定し、生徒が終わってなくともきっちりと区切られた。私はもう少し粘らせたいという思いがあれば時間延長は辞さないのだが、こういうところに指導の思想は現れる。入試での到達・実現という観点から考えたらどちらがよいのだろう。恐らくどちらも正解だ。必要なのは一貫した姿勢である。


      解説が始まる。ロカビリー先生のブログで拝見した通り、柔らかな語り口で間の取り方がうまい。大手塾で研修を受けたとは思えない(失礼)、自然体のあり方だ。生徒とのやりとりで時折挟む「〜やな」「せやな〜」という関西弁がさらにその雰囲気を強くさせる。早口で下町弁バリバリの私の指導に慣れた生徒達の表情からは、集中しながらも非常にリラックスした様子がうかがえる。


      今回の先生の数学の授業は「情報の取り方」「予測」、「レファレンスからの情報量」「布石を打つ」に集約される。なんだか偉そうにまとめているが、塾講師なら誰でも意識する、極めてオーソドックスな授業技術だ。しかしそれを1つの授業の中で、それも他塾での訪問授業で発揮するのは簡単ではない。それを三上先生は堂々と展開された。


      「情報の取り方」と「予測」。問題文から、条件を丁寧に読み取り、例えば「この図形は正方形だろうな」などの設問意図を予測・推測しながら読み進める。これはやり過ぎると解説が迂遠になって生徒が混乱する。かといってここをかっ飛ばすと、できる生徒しか養成できない授業になる。何事も塩梅が難しい訳だが、三上先生の導入における情報の取り方と予測は、濃すぎず薄すぎず、絶妙な「塩梅」で生徒の問題理解を深めた。


      「レファレンスからの情報量」。解説を進めるにつれ、レファレンスが多くなる。証明問題がある。「じゃあ三角形の合同条件を言ってみて」―これは普通。そこから「じゃあ直角三角形の合同条件は?」―あ、それも?その後「平行四辺形になるための条件もあったよね?あれ覚えてる?」まで進んだ。この一連の流れが、何の無理もなくスムーズに展開される。予測もレファレンスも、ただ多くするだけならそれほど難しくない。授業準備をこってり積み上げればいいわけだ。文章でその時の空気感や流れを説明するのは難しいが、こうした内容を無理なく授業の流れに乗せるのは相当しっかりした技術がなければできない。


      「布石を打つ」。これはこの3つの中で一番難しい。ここでもやはり必要なのは自然な流れ。生徒達はその流れを理解し、復習で自分の中に落とし込んで実践で使える武器にする。不自然なら理解が滞るし、復習の際に意識が弱くなる。三上先生はその布石を、小問解説で設けた。問3を解くための布石を問1で設け、赤字で板書しておく。それを問3で「さっきのあれやな!」と大きな声で強調された。先生はご自身のブログで淡々と書かれているが、その時、教室の空気はピリッと一変した。2年前、赤虎先生の塾で上江州先生による日比谷英語の解説を聞いた際、上江州先生がキーワード発問でそれまでの雰囲気を一変させて徒達に強く迫った、あの空気のコントロールを思い出した。三上先生も上江州先生にその技術については聞いていたのだろうか。それとも自然に出たものなのだろうか。後者だとしたら凄いことだ。いや、これは教わっていても、そう簡単に実践できるものではない。おそるべし、三上慎司(続く)。



       
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      ほとばしる情熱 〜三上慎司先生来訪記 その1〜
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        私は大学を出てすぐ専任の塾講師になった。早いもので今年でもう22年目だ。ただ、学生時代塾で働いたのは4年の夏からで、それまでは外食のバイトばかりやっていた。イタリアン、ダイニングバー、ファミレスなどなど、色々な業態で接客を経験していた。某大手ケーキチェーンショップでクリスマスケーキを売ったこともある。こう見えて(?)外食(接客)適性は高い方で、どの店でも早い段階でバイト序列の上に上がった。ファミレスではバイト責任者だったのでお客さんに「店長」と呼ばれていたし(笑)、クリスマスケーキを売った際には新記録を作り、短期契約から長期契約への書き換えを依頼されたりもした。将来はそちらの方面で就職しようと考えたこともあったのだ。


        ただ、自分のスキルアップのために自腹を切って他のお店に食べに行ったりしたかというと、まったく記憶にない。確かに飲み食いは好きだったで学生なりにあちこち行ったりしたが、それは自分の楽しみがメインで自分の技量のための研修研鑽ではなかったと思う。学生というのは学生なりの自己完結した世界を持っていて、その中で自分を磨き、己を誇ったりするが、下心なく自分自身のために外に向かって踏み出すことは少ないものだ(別にそれがすべて悪いというわけでもないが)。そんな標準的な学生を地でいっていたのが、大学時代の私だったと思う。


        学生にもかかわらず自腹を切って他塾の門を叩き、自己に磨きをかける俊英がいる。京都大学工学部に在籍中の三上愼司先生だ。先生は学部生でありながら『直感で解く受験数学』(ディスカヴァー)という受験参考書を上梓されている、我々塾業界の誇る逸材である。若く情熱にあふれた学生講師はたくさんいるが、参考書を出すほどの実力を兼ね備えた人物などそうそういやしない。その三上先生が、先日進学塾Uineに来てくださった。


        先生とはツイッターでひょんなことからやりとりするようになり、今回の来塾と相成った。色々な感じ方はあると思うが、自塾に他の先生をお迎えすることは私にとってこの上なく嬉しいことだ。それは自分が認められたという感覚よりもむしろ、他の先生の考えが聞ける・授業が見られるというワクワク感の方が圧倒的に大きい(そう、私は訪問を受けると「特別授業をお願いします」と図々しく頼んでしまうのだ)。他の塾に見学に行っての学びも非常に大きいが、自塾に来て授業をしていただくことで、自分が当たり前のこととして行っている我が生徒への対し方を見直すきっかけとなったり、生徒の新たな面を見出したりすることができる。


        私の駄ブログに先んじて、三上先生ご自身が進学塾Uine訪問記をブログに書いてくださった。
        訪問(1)
        訪問(2)
        訪問(3)
        訪問(4)終
        私の授業も本当によく見て下さっており、ちょっと泥臭い私の授業がとてもきれいに描かれている。また、先生自身の特別授業についても、そのプロセスを詳細に記されているのでぜひご覧になって頂きたい。


        三上先生の授業を拝見するにあたり私がぜひとも見極めたいと思っていたのは、理系の先生による数学授業の要諦だった。御存知の通り私は文系、それも専門は現代文と古文というド文系である。数学は高2までやっていたものの算数の時代からそれほど得意科目とは言えず、教える側になって会得したことがらも多い。だから毎年数学の指導は一番(ときに過剰なほど)気を遣っている。進度や内容の吟味はもちろん、入試問題対策も遺漏がないように(「文系の先生の塾だから数学が弱い」と言われることがないように)、できる限りの対策を行っているつもりだ。その甲斐あってか、定期テストも入試結果も決して数学が弱いということにはなっておらず胸をなで下ろしているが、それでも「文系が教えている」という弱みは払拭できない。「理系の先生が教えたらもっと伸ばしてあげられるのでは?」という半ば強迫観念めいたものが、私の中には常にくすぶっている(続く)。




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        イズムの体現 〜ロカビリー先生の塾を訪問して〜
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          去る11月5日、九州福岡にあるロカビリー先生の塾を訪問させていただいた。ロカビリー先生と言えば泣く子も黙る「日本一硬派な個人塾塾長」である。先生のブログ(現在は残念ながら閉鎖されている)は独立前から愛読させていただき独立の英気を養ったが、私と同じように先生のブログから刺激を受けた塾講師は多いだろう。その指導に賭ける圧倒的熱量と言葉の力には、個人塾の可能性とあるべき姿の1つが凝縮されていた。


          何度か書いているが私の独立にはロカビリー先生や他の先生方のブログの刺激があってこそだったので、先生はいわば私の「恩人」の1人である。その恩返しではないが、独立して塾が軌道に乗り始めて以来、先生の塾を訪問させていただきたい気持ちはずっと持ち続けていた。ところがなんと今春、私が伺うより先にロカビリー先生に私の塾を訪問して頂いてしまったのだ(その時のブログはこちら)。本来後輩である私が先にうかがうのが筋なのに何とも恐縮な話である。それ以来、以前にも増して一刻も早く訪問させていただきたいという思いを抱いていたのだが、秋になりやっと色々な段取りがつき先生にも訪問をご快諾いただけたので今回の訪問と相成った。


          どうでもいい話なのだが、私は高所恐怖症なので飛行機はできれば乗りたくない。人生で飛行機に乗ったのは1回(1往復)だけである。今回も福岡までは新幹線で行けるので当然新幹線でと思っていたのだが、調べてみると飛行機の方が格段に安い。おまけに時間も4分の1以下だ。背に腹は代えられぬではないが、時間も料金も飛行機の勝ちならそちらを取るしかない。ということで、清水の舞台から飛び降りる心境をもって一路福岡に飛んだ(飛行機が揺れる度に脇汗ビッショリだった)。


          福岡空港から先生の塾の近くへ移動し、ホテルにチェックインする。しばらくするとロカビリー先生が迎えに来て下さった。先生の塾までの道々、やはり話は塾のことばかりだ。いや、私ばかりが話していた気がする。秋になって引き受けた中3の話、昨日退塾したばかりの生徒の話、伸びない生徒についての悩み…先生に聞いて頂きたいことが多くてベラベラまくし立ててしまった。僭越ではあるが、こういう時に多くを話せるのは同じように教務と生徒指導に多くを賭けている先生だからこそだ。賭け方、行き方が異なる人とはかみ合わないから話すことは自ずと少なくなり、沈黙が増えるか塾以外の話題に流れていく。塾の話だけをし続けていられることの貴重と幸運を改めて噛みしめた。


          途中、現在ロカビリー先生の塾のサポートをされているH先生とも合流し、先生の塾に到着する。幹線道路に面したビルの2階。窓ガラスにはシンプルに塾名と理念だけが記されている。まさに硬派な塾の印象。塾内にお邪魔する。2教室構成だが広さに比して机の数が少なく、かつ3人掛けに2人座るゆったりとした配置。以前先生のブログで拝見したように壁に掲示物はほとんどなく、勉強に特化した空間というのがぴったりだ。生徒が集中できるよう配慮が細かくなされている。


          授業開始まで、ロカビリー先生、H先生と塾談義に花が咲いた。とはいうものの、ここでもいつの間にか私が自分の塾の話、東京の受験事情などを話している局面が多かった。ロカビリー先生もH先生も話を引き出すのが上手いというか聞き上手というか、話をすることが心地よくいつも以上に饒舌になってしまっていた。まるで先生に今日あったことを夢中で話す生徒のようだった(苦笑)


          授業が始まる。ロカビリー先生は中3生の英数、H先生が中1生の英語を担当。私はロカビリー先生の授業を中心に拝見させて頂いた。


          ロカビリー先生の授業は4月に私の塾にお越しいただいた際の様子をこのブログでも記したので詳細については省略したい。私は先生の授業はもちろんだが、生徒達の表情をのぞき込み、その視線と表情に注目した。我々の仕事は勉強できる生徒を育てることにある。授業を受ける姿勢、問題に取り組む態度、それらは生徒達に目を見れば大抵分かるものだ。


          授業を「きちんと聴いている」という状況には大抵「遊び」がある。解説の際に「時折」目が泳いだり視線が落ちたりすることを許容範囲とする講師は多いものだ(そもそも気にしない者もいる)。私の場合その遊びはかなり小さくて生徒がちょっとでも下を向くと「オイッ!」と声が飛ぶ。ただ、普段から話を聞く際の姿勢については直接間接に渡り繰り返し説いているが、それでも全員がしっかりした姿勢で聞けている訳ではない。


          ロカビリー先生の生徒さんたちは皆、先生が話をしている時はひとときたりとも先生から視線を外さない。比喩ではなくまさに一分の隙もない姿勢で先生を凝視し、授業に集中している。これほどまでに生徒全員が究極の集中力をもって授業に臨んでいる塾は恐らくないだろう。猫ギター先生が以前ロカビリー先生の生徒さんたちを「○○予備校・東大英語コースかと思うくらいの集中力」と評されていたことを思い出した。純粋で一心な中学生の強い視線は、トップ予備校生のそれ以上かもしれない。


          先生が席を外されることが数回会ったが、その集中は全く変わらない。先生が怖さだけで生徒を押さえつけていない証拠だ。上江州先生の授業もそうだった。先生が教室からいなくなってもおしゃべりどころかアイコンタクトさえない。普段の指導のありようはこういう瞬間にも垣間見られる。


          集中度合いだけでなく、ロカビリー先生の生徒さんたちは皆とびきり礼儀正しい。私という珍客に対してはもちろん、トイレや電話を借りる際も丁寧にあいさつし、お礼を言う。ウチの生徒も全員そういうあいさつやお礼は言うが、ロカビリー先生の生徒さんたちは姿勢まで正している。ウチもまだまだだ。


          こういう生徒達の成績が悪いわけはない。それぞれ違いはあるものの、総じて作業スピードは非常に速く、正確だ。教室に貼り出されている模試の結果を見ても、塾内平均偏差値は60を大きく超えている。やはり、学習指導とはそれ以前に整えるべきことがあってこそ成り立つ、という思いを新たにした。


          個人塾には「イズム(主張・流儀)」がなければならないと思う。そしてそれは、派手なキャッチコピーをデカデカと貼り出すようなやり方ではなく、また塾長や講師が日々声を張り上げて連呼するようなものでもなく、生徒たちから自然と滲み出るものでなければならない。我々の仕事が生徒を育てることである以上、我々のイズムの体現は生徒自身でなければならない。塾長が強烈なカリスマを放っていても、講師の授業技術が超絶であっても、生徒からイズムが感じられなければ教育としては不十分だ。


          ロカビリー先生の生徒さんたちを評するとすれば、まさにこの「イズムの体現」という言葉しか浮かんでこない。先生がこれほどまでの生徒に育てるのに、どれほど心を砕き、思いを込めてきたか。ほんの小さなことをもゆるがせにせず、妥協のない指導をされてきたのか。あれこれ言葉も浮かんだが、言うもさらなりの思いだ。


          授業終了後は場所を移し、楽しい小宴を催して下さり、春に東京にいらした際に私がした何倍もの歓待をしていただいた。ロカビリー先生のお気遣いに感謝することしきりである。夜が更けていくのが残念に思われるほど楽しい夜だった。


          塾を見学させていただく時にいつも思うのは、その恩返しとして自塾をさらにパワーアップさせなければならない、ということだ。貴重な時間を割いて迎えていただいたその恩に報いるためにも、自身の指導を省み、改良改善の機縁にしなければならない。また再びロカビリー先生に私の塾を訪問していただけることがあれば、以前とは違う姿をぜひお見せしたいと思う。ロカビリー先生、ありがとうございました。





           
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          笠見先生の本、「難関私大・文系をめざせ!」出版!!
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            私の最も尊敬する先生の1人、猫ギター先生こと笠見未央先生が本を出版された。その名も「難関私大・文系をめざせ! 偏差値どん底からの『早慶・GMARCH・関関同立』突破大作戦」である。


            先生のこれまでの実践を凝縮した、まさに難関私大を突破するための最終秘密兵器のような本だ。高性能の本を読みこなしそこに開示されている方法を実行するには受験生本人の堅固な意思と実行力が必要だが、それを兼ね備えた者にとってはまさに福音とも言える書である。私もまず10冊購入させて頂き、スタッフと数少ない大学入試一般受験組にも速攻で配布した。予備校で教えている生徒達にも手にとって読むことをぜひぜひ勧めたい。


            本の内容については私ごときがあれこれ言うレベルではない。笠見先生一流の、洒脱で思わず膝を打つような比喩と実践で流された汗が行間からほとばしる。先生のブログの愛読者である私もまた改めて唸ってしまうような洞察力がそこかしこにちりばめられている。そして何より、生徒の実力を伸ばすのだという情熱が巨大なエネルギーのごとく渦巻いている。


            大学受験の勉強法についての本は数あれど、笠見先生の本ほど書き手の情熱があふれた本はないと思う。


            文章にはその人の知的な面だけでなく感情、情熱も如実に現れるものだ。私などは結構気持ちがあっちこっち揺れるタイプなので一文が長く(断りや前提が多い)乱雑である。自身の知性を殊更見せたがる才気走った人の文章はクドいし、定見がない人の文章はどこか頼りなさげでぎこちない。


            笠見先生の本は全編、「生徒達を合格させたい」という情熱にあふれている。塾講師なら合格させたい気持ちは当たり前だろと思われるかもしれないが、いやいや、塾講師だからこそ合格させたい気持ちが鈍磨した者がごまんといる。


            私の知る限り塾講師というのは二分される。「生徒のために尽くす講師」と「自分に尽くす講師」だ。確かに「生徒のため」というのはどこか白々しい。仕事というのは自己実現の側面があるからだが、それを知ってか知らずか殊更「生徒のため」を謳う塾もある。私が言う「生徒のために尽くす」というのはそういう欺瞞的な言辞ではない。熟の仕事のあらゆる局面が、ことごとく「生徒の成績向上・合格」に集約されているありようのことだ。


            一見仕事に真剣なように見えてその実生徒よりも自分に尽くす講師というのは、成績向上や合格に一喜一憂しない。生徒の成績が下がっても、仮に不合格だったとしても「職業的達観」を装う。こういう態度のはキャリアを積んだからでも人生の長さを知っているからでも何でもない。興味は生徒よりも自分の側にあるのだ。


            生徒のために尽くす講師は生徒の成績や合不合に一喜一憂どころか塾講師生活をかけるくらいの気持ちでいる。生徒の人生がかかった入試だからこそ、全てを賭けるような情熱をもってサポートしていく。そしてそれは外から見てはっきりと分かる情熱として示されなくとも、実践に如実に表れる。どんな指導をしているか、日常どんな言葉をはいているか(ブログ等で)をみればおよそ判断がつく。


            実は、このブログで「こんな塾に通いたい」というシリーズを書いていて、その最後は「講師の情熱がほとばしる塾」というのを考えていた。ここまで書いていた内容がそれなのだが、笠見先生の本を読んで、これほど「情熱がほとばしる」塾と指導を体現した本もないという思いがまず浮かんできた。私の駄ブログのネタに笠見先生の本を持ち出すのは無礼なのは承知している。でも私がひとりの親として、絶対通わせたい「情熱のほとばしる塾」がそこにはある。そしてまた、これほどの情熱にあふれた受験勉強本は他にはない。


            笠見先生は前書きでこう書かれている。


            「本書は私と島の子どもたちの、現場の血と汗と涙を蒸留して、強いアルコール度数のスピリッツにしたような勉強法である」。


            比喩ではない文字通りの血と汗と涙。そこに込められた情熱は読めばすぐに理解できるにちがいない。続いて笠見先生は「飲み干せば受験生を酔わせるだろう」と書かれているが、受験生でなくとも呼んだ者はみなガッツリ酔うことまちがいなしである。誰もやったことのない未踏の実践がそこにはある。



             
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