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向上と蹉跌 その2 〜中2・一次関数導入〜
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    私は新単元を導入する際、英語でも数学でも「初速」を重視する。生徒達には「いきなり分かること」「すぐにできるようになること」を求める。初速の速さ、つまり理解の早さ・速さは内容の定着とリンクしており、また情報処理の速さ≒「頭のよさ」にもつながっている。単元はじめを重視することで、こうした力を養いたいという思いがある。

     

     

    もちろんそこにはいきなり・すぐにやれるような授業構成、発問や助言の工夫に代表される「ゆるやかな階段設定」や「橋渡し」が重要なのは言うまでもない。そういう練度がこちら側になければ早さ・速さの要求はただの乱暴な授業に堕してしまう。

     

     

    前のエントリーでも触れた中2数学のメイン単元とも言える一次関数に今週から入った。導入が最も緊張するし、また腕の見せ所でもある。まずは「難しそう」という先入観をできるだけ与えない(これはどの学年、どの教科、どの単元を扱うときでも常に意識している)ようにスタートすること、そして解説では教えすぎず、生徒達に考えさせる道を必ず残しておくこと、の2点を意識した(これもいつものやり方)。そして初速を求めるために「いい?新単元の初めが一番重要だよ?ゆっくり分かればいい、間違えても繰り返しやりながらできるようになればいいとか思っちゃいけない。初めから分かる・できるを目指すこと。入試は初見の問題をやるんだから!」とハッパをかけた。

     

     

    一次関数というのは常に新情報(知識・ルール)が出てくる単元でもあるので混乱しやすい。この点、問題類型をすべて網羅するような解説を入れれば(ノートも取らせる)その後の演習や宿題作業はそれなりにスムーズだろう。ただそれでは生徒達が考えをめぐらせて正解に到達する道を初めから閉ざすことになる。最低限の解説から突破していく力を養わなければ入試問題をこなすことはできないのだから、やはり微に入り細を穿つような解説は慎みたいところだ。

     

     

    授業進行の詳細は省略するが、この導入では「説明された文章に対しyをxの式で表す」「与えられた式をもとに、変化の割合やx,yの増加量を求める」「式をもとにxとyの対応表を作成し、それをグラフに書く」の3つを扱った(ウイプラ「一次関数の導入(1)」)。オーソドックスにテーマごとに例題を板書解説したが、つまずくとすれば2つめの「変化の割合やx,yの増加量を求める」ところだろうと予想していた。

     

     

    ウイプラの(他の教材も同様だが)例題では「変化の割合」の出し方だけを扱う。つまり(変化の割合)=(yの増加量)/(xの増加量)と示して、実際に変化の割合を出してみるわけだ。もちろんここでは「変化の割合=y=ax+yにおけるaの値」ということも取り扱う。

     

     

    ただその後解いていく問題では「xの増加量を求めなさい」「yの増加量を求めなさい」といった例題で扱っていないものが出てくる。ここが指導でも生徒達の学習でもクライマックスで、解説で「xの増加量」「yの増加量」の出し方を教えずに、ただし橋渡し的なヒントを与えておくという手法をとりたいところだ(そこそこできる生徒なら難なくこなす問題だが、ウチの生徒にはほとんどいない)。

     

     

    私は今回、連立方程式のできが予想以上によかったことから、橋渡しとしてのヒントは最小にしてみた。「『代入』がここでも大きな武器だよ!yを求めるには?そう、一次関数の式にxの値を代入すればいい。じゃあxを求めるには?xを求めたときの逆だな!」―ここはあえて「一次関数の式にyの値を代入」とは言わなかった。板書もしていない。

     

     

    約半分の生徒はスムーズに指定のページまで終わらせることができた。残りの生徒の約半分(全体の4分の1)は分数計算に手間取り、質問せずに素っ頓狂な作業をしていて私のドヤされた(その後はスムーズだったが)。そしてそれ以外の生徒は計算にも手間取り、そして私がこの日最大のポイントと考えていた変化の割合及びx,yの増加量を出す問題で手こずり、久々の大幅居残りとなった。

     

     

    手間取った約半分の生徒の特徴には共通点がある。まず解説を聞く際の集中感が低いこと。指名しても答えるまでに数テンポを要することが多く、場合によってはボヤッとしていて怒られることもある。2つめは質問が極端に少ないこと。質問が面倒くさかったり、またプライドが高かったりするため、自分でなんとかしようとしてとんでもないやり方をしたり、いくらやっても先に進めなかったりする。この点は私が一番怒ることなのだが、それでもなかなか改まらない。3つめは、喩えて言うならcpuの性能が低いこと。新情報がいくつもあることに対して、反応しきれない。新しいことをやるとこれまでできていたことができないなど、処理能力がまだ未熟なのだ(これは指導における根本的な課題とも言えるので機会を改めてみたいが、少なくとも中学生レベルの勉強なら、正当な負荷をかければこの点の処理能力も向上していくはずだ。1つめ、2つめの課題もこの3つめに深く関わっていると思う)。

     

     

    連立方程式の習熟度の高さ(あくまで現中2生に対する絶対評価)に喜んだのも束の間で、多くの注意が飛んだ導入となった。彼らにとってもスムーズにこと運び、珍しくたくさん褒められた連立方程式の余韻を消し去る蹉跌だったには違いない。ただまだ始まったばかりだ。

     

     

    それにしても新しい単元というのは生徒はもちろん、指導するこちら側にとっても学びが多い。先にも触れたように一次関数は新情報が多いので、導入の工夫もまだまだし甲斐がある。生徒達の脳性能を向上させられるような働きかけこそ求めていきたいものだ。

     

     

     

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    向上と蹉跌 その1 〜中2・連立方程式〜
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      中2数学はGW前に連立方程式を終了し、明けから一次関数に入った。今年は意識して例年よりも早めに進めているが、その意図についてはまた改めたい。

       

       

      中2の数学は中1と比べて一段ギアが上がるようにレベルアップするが、そのメイン単元として挙げられるのは一次関数と証明だろう。私はド文系なので専門の先生方からすれば的外れかもしれないが、前者はこの先長くつき合うことになる「関数」の幕開けとして、また後者は数学的思考の導入として、算数から数学への本格的脱皮と位置づけられるのではないだろうか。また指導の現場においては、この2単元を苦手としてしまう生徒が多いという意味で力が入るメインとも言える。

       

       

      ただ、一次関数の前の連立方程式もなかなか重みのある単元だ。入試においては東京都立高校では共通問題でも自校作成問題でも計算問題が出るくらいで重視されているとは言いがたいが、私は小学校高学年から続いた「割合」「速さ」のまとめ的な単元として位置づけている。ここで割合や速さという生活実態にも即応可能な思考を卒業し、今後は数学的抽象思考に向かっていくという区切りと言ってもよいだろうか。

       

       

      まとめであるからこそ、負の姿勢・態度も形成されやすい。つまりこの連立方程式の単元で、数学嫌い・苦手の態度が「完成」されることもまた多い。

       

       

      小学校高学年で割合や速さの習熟が不完全な生徒というのは案外多いものだ。そういう生徒の第一関門は中1の一次方程式。計算はよいが文章題で割合や速さを多く扱うため躓く生徒は多い。ここを未消化のまま通り過ぎてしまったら、中2はじめの連立方程式で再び、いやさらに大きく躓いてしまうことは必然だ。一次関数、証明というメイン単元を前にして「もう数学はダメ」という意識が醸成されてしまう。指導する立場としてはこれはどうしても避けたいことだ。

       

       

      今年の中2生は小学校5年くらいから在籍している生徒が半分以上を占めている。じゃあ割合も速さも順調にマスターしてきたのかというと、いやいや全くそんなことはなく、小学校時代から悪戦苦闘の連続だった。小6時には幾度となく小5まで戻って割合の復習を行い、速さ単元とともに線分図での理解を徹底した。ただ、それでもしばらくすると忘れてしまう。ここはしつこい指導で定評のある進学塾Uineの本領を発揮し、呼び出し補習での反復で定着を図った。

       

       

      そんな生徒達だったので中1での一次方程式の苦労も予想できたが、実際にやってみると果たして惨憺たるありさま。生徒達の表情も不安や焦燥で一杯だった。これはもう徹底的にやるしかないと、昨年は夏休みの数学指導すべてを、方程式の文章題対策に当てた。その甲斐あってか、十分な習熟をもって先に進めたと思う(その時書いたブログはこちら)。

       

       

      そして今年、中2の連立方程式。なんとびっくりするほどスムーズに進むではないか。今年の中2数学はウイニングプラスを使用しているが、テキストの練習1,2はほとんど質問も出ず、できもほぼ完璧(さすがに実戦問題では質問が出るが)。中1時もウイプラを使ったが、当初はなかなか進めることができず別の基礎〜標準テキストで慣らしていったことを思うと驚くばかりの向上だ。まとめとして行ったテスト(レベル的には標準〜発展の中間くらいか)もほぼ全員が満点〜1問ミス程度で仕上げた。このスムーズさもはじめに触れた早く進められている要因の1つだ。

       

       

      この大きな向上にはもちろん喜びが大きいが、小学校時代から蒔いてきた種がやっと芽を出したのかなとも思う。もちろんそこには、今年の中2に共通する真面目さ、従順さ(この点にはいろいろな側面や思いもあるのでまた触れてみたい)があってこその実現だろう。ともかく、1つのまとめと位置づける連立方程式をスムーズに乗り越えられたことにほっと胸をなで下ろした(この項続く)。

       

       

       

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      ペースをかき乱す
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        今年度は新小学4年生が例年より多く入塾してくれたのだが、年度初めのこの時期、小学生、とりわけ4年生の生徒達の指導で意識しているのは彼らのもっている勉強ペースを乱すことだ。

         

         

        私も小学生の子どもがいるので学校公開(授業参観)に足を運ぶことがある。そんな時はできるだけわが子のクラスだけでなく他のクラスや他の学年まで見せていただくようにしているのだが、いつも感じるのが「学校の勉強だと、自分のペースを変えないで済むことが多いよな」というものだ。

         

         

        1クラス30人前後いるわけだから作業が早い生徒、遅い生徒が当然いる。遅い生徒(学校公開で見ていると気になって仕方がない。補助に行きたいくらいだ)はあれこれできないことが多いものだが、それはそれとして授業は進んでいくことが多い。遅い生徒は放置されていると言ったら言い過ぎだが、遅いということに対してなかなかその場では手立てが講じられないことが多いように思う。これは塾が優で学校が劣だというのではなく、あくまで指導特性(指導人数から方法まで広く含む)の違いとして学校では生徒達のもっているペースが尊重される(かき乱されない)ものだと感じている。

         

         

        塾は学校の指導にはないものを求められている(はず)なので、塾人としての私が考えるのはまず、その学校では乱されない個々のペースを崩し、時に乱しながら、学力向上につなげることだ。そして、4年生くらいだとその「乱し」は「急がせる」ことから始めることが多い。生徒達のもっているペースを(大げさにいえば)否定し、そこから新たなふるまい方を身につけさせる。そんな目的をもった「急かし」をこの時期は意識的に多くしている。

         

         

        数日前、こんなツイートをした。もちろんここで取りあげている年度初めの小学生指導を念頭に置いてのものだ。

         

         

        当然だが「急げ急げ」は塩梅が難しい。きっちりとした学習手順を踏みつつ、これまでやったことのない「急ぎ」を演出するというのは言うほど簡単ではない。このとき必要なのは、月並みだが、生徒を観察する透徹した眼だ。生徒を見る、見極める姿勢と眼力がないと「乱し」をコントロールするのは難しい。偉そうに言っているが私も毎日教室で悩み、時に立ちつくしながら生徒達を見つめている。

         

         

        今年の新小学4年生たち、みな素直で、そして適度にマイペースだ。緩急織り交ぜながら、日々乱しを意識しながらやっているが、みなほどよく乱れつつ進歩前進している。

         

         

         

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        失われたものへの憧憬−『私はこうして執事になった』と『細雪』
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          ちょっと前に、書評だかTwitterだかで知った『私はこうして執事になった』(ロジーナ・ハリソン、白水社)を読んだ。舞台は20世紀初頭から第二次大戦前後まで。その頃のイギリス上流階級の家庭に仕えた執事(butler)や従僕(survant)が、自身の仕事や雇い主との交流をふり返るという回想録だ。執事、従僕という身分が見た「古き良きイギリス」という趣で全編が彩られている。

           

           

          いまだ階級の名残があるとされるイギリスにおいても、莫大な財力と社会的地位をともに備えた貴族は第二次大戦前後に漸減していったという。財政基盤が縮小した貴族は自ずと使用人たち−執事、従僕、メイド、庭番、運転手、家付きコックなどなど−の数を減らし、それに伴って継承されてきた「仕える側」の文化やしきたり、矜恃も失われ、もはや前時代の遺物となってしまった。興味深いのは、かつての雇用者−上流階級と被雇用者−労働者階級という峻別が、却って両者の深い結びつきを可能にし、一方でその区別が緩やかになった昨今は両者の交流も交歓も乏しくなっているという逆説だ。違うからこそお互いを主張し、対立もするが、それが結びつきや尊重に転換することもある。一方で違いが峻別ではなく連続的なものになったことで、互いへの尊重よりも妬みや対立が誘発されやすくなるということか。単純な回顧もののつもりで読んだのだが、なかなか深みのある本だった。

           

           

          私は文学部出身だからか、こうした昔を懐かしむ物語には常にゆかしさを感じる。読み終わって好みの本を読めたという満足感と失われたものへの憧憬が交錯したが、はて、こういう感覚を与える小説が日本にあったよなと考えてみたところすぐに思い出した−谷崎潤一郎の『細雪』−。

           

           

          谷崎の代表作の1つと言えるこの作品は戦前の阪神地方を舞台に旧家の四姉妹が織りなす日常を描いたものだが、物語の芯を貫いているのが結婚の問題だ。作中では三十路を過ぎて婚期を逃した(!)三女雪子の見合いと結婚、また自由奔放な新時代の女性として描かれる四女妙子の恋愛が中心に描かれるが、すでに結婚している長女鶴子、次女幸子(ともに「婿」を迎え、本家と分家として家を構える)の描かれ方にも、当時の結婚という制度の性格が色濃く現れる。

           

           

          細かい部分は措くが、雪子の見合い、妙子の恋愛に際しては「身分」という意識が根底に横たわっている。代々の大店はすでになく現状は没落と言わざるを得ないが、大阪の旧家に生まれ育った姉妹の「家柄」「家格」に対する矜恃、また「使用人筋」「出入り商人筋」の人間たちの、姉妹たちに対するへりくだった−「身分をわきまえた」−態度。映画、ドラマなどで扱われる「身分差」というのはことさら彼我の差を印象づける描き方をされるが、『細雪』で描かれるそれは極めて自然で、まただからこそ消し去りがたいものとして存在する。そして結婚に際してはこうした「身分」は第一優先的案件であり、うまくいったり行かなかったりする原因は、まずそこに求められる。

           

           

          また結婚制度とは家父長制での「家」のあり方を堅持するものであることはいうまでもない。未婚の雪子、妙子の結婚や恋愛は本家の主人である長女鶴子の夫、辰雄が管理するものであり、勝手な行動は許されない。もちろん最終判断も辰雄に委ねられているが、新時代の曙光が見え隠れするこの時代、いつまでもそれに拘泥するやりかたは葛藤やすれ違い、軋轢を生んだりもする。

           

           

          舞台がイギリスであっても日本であっても、「身分」は社会的に否定されるべきものであり、それが生み出すさまざまな制度的差別、区別はもちろん、意識の上のそれも忘れ去られるべきものだ。そのことに全く異論はない。とりわけ門地で差別されるようなありようは断固として否定すべきであり、それは論を俟たない。

           

           

          しかし一方で、失われたものに対する惜別と憧憬は、私の中では消し去りがたくある。−『私はこうして執事になった』に描かれる貴族生活の豪奢な日常とその輝き。そこに仕える者たちの、ささやかな楽しみや労働の喜び。『細雪』に描かれる、新上中流階級の贅沢な消費生活と有閑。家父長制のもたらす窮屈だが強固な結びつき。−陽だけ見て陰を見ないとのそしりもあろうが、陰影ともに色濃いからこそ、ゆかしき文化の輝きがそこにはある。

           

           

          失われたものと手に入れたものはその価値も含めて常に相対的だ。そのことに思いを馳せつつ、個人的には陰影ある時代の文化の残滓を少しばかり肯定的な眼で眺めたいと思う。

           

           

           

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          緩やかな滑り出しー新中1スタートー
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            今年の新中1は緩やかにスタートした。始まって約4週間たつが、英語はまだ単語のトレーニング、数学も正負の数の乗除に入ったところだ。

             

             

            勤務時代はとにかくスタートダッシュが肝心とばかりにかっ飛ばして授業をやっていたが、自分で塾を構えてからは中1の出だしは年々ゆっくりになっている(中2、中3はまた別だが)。今年はおそらく過去最もゆっくりで、なんだか自分でも心配になるくらいだ(笑)

             

             

            ゆっくり進める理由として、1つには「中1の最初からクラス定員がいっぱいにならない」というのがある。恥ずかしい話でもあるのだが、事実として進学塾Uineは中1の初めは大抵定員に余裕がある。徐々に入塾が増え、中2の初め頃にほぼ定員となる感じか。そんな状況でハイスピードで予習授業を行ったら、さすがに新入塾生の負担が大きくなりすぎてしまう。それを避けたいという思いが1つ。

             

             

            「新入塾生の負担」と書いた。「負担」を「負荷」と考えれば、適切に与えることは勉強において極めて重要なことがらだ。負荷のないところに成長は乏しく、負荷を乗り越える格闘こそが中学生にとって成長の源ともいえる。

             

             

            負荷は一線を越えると負担になる。その見極めが難しい。24年この仕事に携わっているが、今でも悩むし、失敗もする。塾での失敗とはすなわち退塾のことだ。せっかく出会えた生徒との別れが己の失敗によるものだとすれば、それは申し訳なく、悲しい。

             

             

            失敗を怖れて指導を加減することは塾を作った当初の志に反する。それは最も忌むべきことだ。しかし、自分の理想に準じるあまり負荷が負担に転じるのは、これもまた教育の末端を担うものとして、慎まなければならない。

             

             

            こんな背反する思いに悩みながら、年々中1生の指導は緩やかにスタートするようになっている。もちろん次第にペースとテンションを上げ、「いつもの進学塾Uineの指導」になっていくのであるが(実は「いつもの指導」も年々穏やかになっている。これはまた改めたい)、中学進学と新たな通塾という環境の変化は、生徒達にとってそもそも大きな負担であろうという思いが強い。

             

             

            年齢とともに丸くなったのかなとも思う。別にとんがり続ける必要はなく、丸くなること、自信の変化を受け入れる気持ちもあるが、そうならば別の部分で強さを磨いていかなければという思いもある。教務の精度、働きかけの熟練、教育に対する学びなおし…プラスの変化の余地が多いととらえたい。

             

             

            今日は単語テストだ。これまで何度も何度も繰り返してきた単語、約50個をまとめてテストする。十分な負荷だろう。合格できなければもう1度やる。できるまでやるのがいつもの進学塾Uineのスタイルだが、日程や目標はやはり緩やかにいきたい。新中1生、まだ時間はたっぷりある。

             

             

             

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